宇和島 芝居・活動小屋幻景 1

第1回 宇和島の芝居小屋ことはじめ

「宇和島映画館物語」では、私が映画館とともに育った宇和島の戦後の時代を中心に紹介してきましたが、今回は私がまったく見知らぬワンダーランドへ–––戦前の宇和島の芝居小屋や映画館〔注1〕から、戦後まで続いた劇場の変遷などを少し交えながら–––タイム・スリップしてみましょうか。

宇和島の劇場の歴史を探ると、古くは明暦16(1670)年頃、片側は海であった旧塩屋町(現恵美須町)に芝居小屋があったといわれています。藩政時代には、幕府が宝永6年(1709)年に殊に武士・町人の華美や豪奢(ごうしゃ)を抑制するために「歌舞妓芝居物向後一切停止」の命令を出したとき、社寺や市、祭礼などに伴なう興行のみは許可され、宇和島藩の宇和津彦神社や吉田藩の八幡神社祭礼などに芝居興行が許されたようです。

幕末頃から各藩とも興行制限が緩まり、明治維新以降、劇場建築が許可されるに伴なって宇和島では、明治18(1885)年開設の追手通りの融通座を中心に、歌舞伎はじめ、操(あやつり)芝居、浄瑠璃(じょうるり)、幻灯、義太夫(ぎだゆう)、浪曲、講談や、さらに明治中期には欧米から導入されたシネマトグラフ(映画)と、娯楽興行が急激に盛んになっていきました。ほかにも追手には山本席(座)、朝日座、旧本町に宇和島公会堂(のち中央町に移転)、旧栄町に福井座などの劇場が開場となりました。

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人形(ひとがた)を使った芝居 大正後期

上の写真は上演内容は不明ですが、大正末の融通座の舞台のようす。一般的な操芝居ではありませんが、人形(ひとがた)を使った演劇のようです。中国の古い時代の服装らしく、楽器〔注2〕をつま弾いているようですが、実際に音は聞こえたのでしょうか。舞台右下に座る3人の男の人が、細い棒状のようなもので人形を操っているようにも見えます。大正時代には、文楽や人形浄瑠璃、芸妓(げいこ)芝居や奇術などの上演記録もあります。

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融通座の辻ビラ券 昭和初期  提供:山本新一氏

次にご覧にいれるのは、非常に珍しい昭和初期の融通座の辻ビラ券(原寸大)です。辻ビラとは、一般に開場前に市中や銭湯など人の集まる場所に貼る広告のことですが、「本件御持参ノ方ハ四十九銭 税別」と割引券になっています。それにしても、「宝塚の舞姫」と「爆笑漫才」の組み合わせは殊の外ユニーク。「宝塚の舞姫」とはもちろん、「宝塚少女歌劇」出身者が出演しているというわけでしょう。

宝塚少女歌劇は、大正3(1914)年に宝塚新温泉内の劇場でスタート。タカラジェンヌで宇和島と関わりのある女優には、昭和12(1937)年、宝塚から映画界への転身第1号の轟夕起子(本名 西山都留子 つるこ)と後輩の日高澄子〔注3〕がいます。また、戦後初の南予ロケで映画デビュー作を飾り、宇和島・津島町の人たちと交流深かった淡島千景も加えてよいでしょう。ほかに、宇和島ではありませんが、最近では「宇和島運輸フェリー」のCMなどで活躍中の八幡浜市出身の女優宮本真希が宝塚、旧大宮ホール(旧宇和島市公会堂)にも来演した、NHK『うず潮』で人気者になった同市出身の林美智子はOSK(大阪松竹歌劇団)出身者です。

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人力車で「顔見せ」 大正時代

融通座などに前評判高い芝居がかかると、煙火が打ち上げられ、「顔見せ」と称して一行を人力車に乗せて宣伝に町中を練る習慣があったといわれています。先導車の男性は小太鼓を持っており、後続車には役者一行が乗っているようです。大正中期、新劇から転身してのち日本人ハリウッドスターの先駆けとなる上山草人(かみやま そうじん)が、「近代劇協会」の設立メンバーで妻の山川浦路らと来演。ドストエフスキーの『復活』を上演しましたが、興行師から「顔見せ」の交渉がくると、草人は「顔が見たければ劇場に見にこい」とまくしたてたという、有名なエピソードがあります。

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戦前と戦後に融通座に出演した「われらがテナー」のテノール歌手・藤原義江は、プライドが高く、パレードなどにはいっさい参加しなかったと伝わっています。しかし、戦後融通座から映画館に切り替わった直後の昭和31(1956)年、宇和島興行界の大物・堀部徳之丞社長が亡くなった際、藤原は堀部の宇和津町の自宅へ弔問へわざわざ訪れており、二人は昵懇の間柄で、ほんとうに義理堅く優しい人柄だった、と昨年鬼籍に入られた徳之丞の一人娘・三好明子さんからお聞きしました。

〔注1〕初期の映画は映像のみで音声のない「サイレント映画」であり、日本では別名「活動写真」とよばれ、映画館は「活動小屋」と称された。

〔注2〕調べてみると、人形が手にしている楽器は、螺鈿槽箜篌箜篌(らでんそうのくご)という弦楽器や、螺鈿紫檀阮咸(らでんしたんのげんかん)といわれるたて琴。いずれも東アジアや中国、朝鮮などから、のちに日本に伝来したものと思われます。

〔注3〕本名 谷口富子。厳密にいうと、京都市下京区生まれで生家は染色業。母親六女生(むめお)が市内賀古町生まれで、母親の親類も多く、彼女自身も小学校に上がる前の半年間を宇和島で過ごしたというから、轟夕起子と境遇も似ている。

参考資料:津村寿夫著「宇和島の明治大正史」(泉山草房刊 昭和43年発行)

館主のつぶやき 「宇和島歌舞伎」考

2代目市川亀治郎改め、4代目市川猿之助丈を招き、宇和島では平成24(2012)年から3年連続で「宇和島歌舞伎」と称した公演が南予文化会館でありました。どうして歌舞伎?と思わざるを得ません。なぜなら、これだけ宇和島圏域の地場産業も、商店街も衰退しきって最低レベルに落ち込んでいるこの街で今、優先順位として、他にすべきことがいっぱいあったのではないでしょうか。文化庁補助事業のうたい文句であり、行政主導で行なわれた感が強いですが、歌舞伎出演者やスタッフ、特定のイベント業者やプロデューサー等関係者だけが、メリットがあったのでは。

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役づくりのために和霊神社を訪れた3代目市川猿之助(現2代目市川猿翁) 昭和53(1978)年9月
(中日劇場「市川猿之助特別公演」パンフレット 昭和55年6月 より)

たしかに初代と3代目猿之助が和霊騒動を素材にした歌舞伎を上演し、2代目が融通座に来演した縁があって企画されたのでしょうが、芝居小屋どころか映画館も音楽ホールも美術館も何もない“文化音痴都市”の宇和島で、上演するどんな意味、どんな価値があったのでしょうか。「昨年から続く歌舞伎イベントに驚くほど多くの人が着物や、めいめい晴れ着を着込んで集まってくるのは、何とか残され、眠っていた情熱が呼び覚まされたからに違いない」と事業プロデューサーと称する方が語っているのは、とんでない話です。

敗戦後から経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言した昭和31(1956)年頃までの、融通座がどういう興行をしていたかは、定かではありません。当時の娯楽の中心であった映画の隆盛の波に乗って、宇和島の代表的な芝居小屋は消えて、洋画ロードシュー劇場へと内部を改装しました。内子座(喜多郡内子町)のような小屋があれば、劇場をめざして歌舞伎がくる、文楽やその他さまざまなジャンルの芸能がやってくるわけです。ちなみに、宇和島南高校出身の山像(やまがた)信夫プロデューサーや、俳優志賀圭二郎は内子座でたびたび公演していますが、宇和島にはそうした場所も地元の芸術家を応援する機会もないのです。市出身の同じ芸能人を続けて呼ぶ悪しき伝統はありますが…。

有名な劇場になるほど、そこに出演したことがその人の大きな実績とプライドになります。宮川左近ショーの暁(あかつき)照雄は、少年浪曲師として融通座で初舞台を踏んだことを自身のプロフィールで載せているのもその一例です。「内子座ファン」で再三公演している「悪役商会」の八名(やな)信夫は、当初から手弁当で内子座に駆けつけたそうですが、まったく同じ理由でしょう。

平成24年の最初の公演の後、「行政でなく、もっと市民の盛り上がりが欲しい」といっていたのは当の猿之助本人だったが、はたして町にとって、どんなプラス効果が生まれたのかはなはだ疑問です。着物を着ている人たちや、商店街の花吹雪は演出上に過ぎないのは見え見えで、市民が本当に猿之助の歌舞伎公演を歓迎し、町の起爆剤になったのでしょうか。補助金にしても市外に流れただけで、単発的なものに終始したに過ぎません。

映画館もなく、ほそぼそコツコツと私たちボランティアにより10年以上開催されてきた学習センターの映画上映会「宇和島名作劇場」を今年から中止する反面、三間町の美沼名画座には多くの予算を回しています。私が十数年運営委員として参加していた歴史資料館にしても、現在のように市が全面的にかかわるようになると、最近では高畠華宵など多額のレンタル料を某美術館に支払い、3ヶ月おきの展示替えをしているのは、一向に解せません。断っておきますが、私は猿之助や華宵が嫌いなのではなく、どちらも大ファンです。いわば開催手法に問題があるといっているのです。

とかく文化を大切にしないこの町で、一部特定の人たちだけが関わる「宇和島歌舞伎」とか、平成24(2012)年の「南予いやし博」にしろ、今年行なわれるらしい「宇和島伊達400年祭」にしろ、市民を置き去りにした、毎回広告代理店に丸投げするようなイベントはやめてほしいと、心ある市民は憤っていると思います。

市が1億円以上の巨費を投じてリニューアルした「木屋旅館」も、全く観光的にはアピールしているわけではありません。「穂積陳重」のミニ公園や「高野長英」の小改装した住居跡は、歴史やその偉人たちの何ら顕彰になっていないばかりか、その人たちを十分甦らせているとはいえないでしょう。池水式庭園で美しかった伊達家偕楽園をなくした跡地に建てたマッチ箱のようにお粗末な市立伊達博物館。全国最悪施設の防犯・防火設備もないような市立歴史資料館。

私個人としては、40年近くボランティアで色々文化的事業を試みてきましたが、この町は何も変わらなかったし、心底絶望しております。宇和島でほんとうに大切にしたかった町並みや建物のほとんどが失われ、あるいはおかしな形に変えられ、10年をひと昔とすれば、築地の料亭「東雲(しののめ)」、別府航路の宇和島運輸フェリー、唯一の映画館が消えた最悪の10年間でした。

 

 

 

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