宇和島 芝居・活動小屋幻景 2

第2回 追手通りの融通座 前章

明治18(1885)年、追手(おうて)通りに商家の積立金をもとに芝居小屋として開館して、まもなく「融通座(ゆうずうざ)」と命名されました。格調ある芝居小屋のゆえ常舞台とも呼称されました。ちなみに、大正3美人のひとりで、宇和島伊達家ともゆかりある女流歌人・柳原白蓮(やなぎわら びゃくれん)〔注1〕は同年10月に生まれています。

大正4(1915)年、歌舞伎小屋としての設備を整え音響装置も抜群で、2代目市川猿之助、6代目尾上菊五郎ら大物歌舞伎役者が多数来演しました。同座に出演した多くの役者・芸人のなかで珍しい顔ぶれは、大正5(1916)年「カチューシャ」の松井須磨子(すまこ)〔注2〕や、同7(1918)年欧米公演で激賞された川上貞奴(さだやっこ)〔注3〕、大正11(1922)年10月には、「日本バレエ界の恩人」アンナ・パヴロワのロシアバレー団が来演しています。戦後は世紀の二枚目長谷川一夫や昭和最大の歌姫美空ひばりも何度か舞台を踏みました。

最近リニューアルされた「木屋旅館」や隣の「吉田洋服店(現安藤コーヒー)」のある堀端通りは、明治42(1909)年以後の城堀埋め立てでつくられたのがその名の由来です。この新興地にくらべ追手本通りは明治はじめから商業の中心地で、融通座はそのシンボル的存在だったのです。劇場左手には一九(いちじく)という置屋があり、まわりには料亭、旅籠が軒を連ねて、繁華な通りであったことが偲ばれます。

融通座桟敷もと11010 
大正初期 融通座舞台と枡席

劇場関係者が顔を揃えており、こけら落としの直前に撮影された新装記念の写真と思われます。この時に左側の花道、中央の舞台(約16m)と枡席(方形に仕切った見物席)などが新設され、日本一の回り舞台と評判をとったといわれています。2階も三方に桟敷(さじき)席があり、収容人数500人。この型式の桟敷席が戦後まであったのは、津島町岩松の「緑座」、三間町宮野下の惠美須座があげられます。

融通座どんちょう4545
大正初期 融通座舞台と泰平楽の額

「繻子刺繍(しゅす ししゅう)の緞帳(どんちょう)を嘉納合名会社〔注4〕他が寄贈とあるので、同じく新装のころでしょう。「おめでたい世の中」という意味の「泰平楽」の額は、右から左に書かれており、町民の幸福を祈って中原渉町長自ら揮毫したと伝えられています。

融通座 大正後期45454545  
大正後期の融通座外観

木造2階建ての両端にドーム屋根を配した和洋折衷造りの貴重な文化財でした。ドームとドームの間はバルコニーで結び、中央には太鼓やぐらを設けているという概観だったようです。写真には2階の手摺付きバルコニーに観客の姿が写っています。 左手に歌舞伎役者の名前がズラリ並んだ「入山招木」と呼ばれる木札が見えます。関西では、斜めになった左右の板の上部が交差して少し突き出た形の「入」の字を模した格好になっていることから、「入山」(大入り)「招木」(招く)という縁起の良いものとされています。「中村扇成」といった関西の歌舞伎役者の名前が並んでいます。

融通座5656
昭和初期の融通座外観

芝居のぼりに名前が判読できる辰己小太郎は詳細不明ですが、井上春之輔 (いのうえ はるのすけ)の方は、明治から大正時代の舞台俳優。明治28(1895)年名古屋で女形として初舞台のあと、京都で旗あげして各地で巡業しています。大正7(1918)年12月に有名な京都・国技館で、辰己小太郎共演で『俠艶録(全7場)』の上演記録があることから、同様演目の新派劇がこの劇場でもあった可能性は高いでしょう。

戦後は、昭和31(1956)年から映画館(洋画封切)になり、外観はそのままに場内を映画館用の席に内部改装して中央の席あたりから、段差を付けて徐々に高くなっていました。しかし、昭和40(1965)年の閉館で、戦災をも乗り越えた貴重な無印文化財だった建物も取り壊され、完全消滅しました。西予市の「宇和町民具館」には、同町にあった栄座(昭和48年解体)の芝居のぼり、下足札や招(まねき 興行記念板書掲額)などが見事に保存・展示されています。宇和島の劇場で唯一戦災焼失しなかった融通座ですので、どこかにはこうした一級資料があるのではないかと思われます。情報をお持ちの方は是非ともご連絡をくだされば幸いです。

〔注1〕柳原白蓮(1885〜1967) 昨年上半期のNHK連続テレビ小説『花子とアン』では、主人公花子の“腹心の友”として白蓮をモデルとする「葉山蓮子」として登場。白蓮の父は柳沢前光(さきみつ)、義母は宇和島藩八代藩主伊達宗城(むねなり)の次女初子。大正天皇の生母、柳沢愛子(なるこ)の姪で大正天皇の従妹にあたる。義理の従兄の俳人松根東洋城の秘めたる“心の恋人”が白漣だったのは有名な話。

〔注2〕松井須磨子(1886〜1919) 新劇草創期の女優で、大正2(1913)年島村抱月(ほうげつ)と芸術座を旗揚げして『サロメ』や『人形の家』のノラ、『復活』のカチューシャ役が大当たり。彼女が歌った主題歌「カチューシャの唄」は2万枚を越える大ヒット、日本初の歌う女優になった。抱月が病死すると、2ヶ月後の大正8(1919)年1月自殺した。

〔注3〕川上貞奴(1871〜1946) 明治大正期に活躍した「日本の近代女優第1号」。初め東京葭町(よしちょう)の芸者で貞奴を名乗り、明治27(1894)年「オッペケペー節」で一世を風靡した川上音二郎と結婚。同32(1899)年川上一座とともに渡米して女優になった後、翌年にはパリで「マダム貞奴」の名を高め、帰朝公演で一気に人気女優に。同44年(1911)年音二郎と死別後舞台から退き、昭和21(1946)年死去した。

〔注4〕嘉納合名会社は、「灘の生一本で知られる」本家・本嘉納家(菊正宗)の分家で、白嘉納家(白鶴酒造)といい、嘉納合名会社を設立した明治30(1897)年頃には、生産・販売数量は業界一に躍り出た。

 館主のつぶやき 目玉の松っちゃんと融通座

融通座尾上松之助新 2333333333
融通座の広告「忠臣蔵」

元劇場関係者から寄贈を受けたのが融通座の広告。赤穂城をバックに立つ「大石内蔵之助に扮せる尾上松之助」、「開館1周年記念」と書かれ「活動写真劇場 融通座」と右下に劇場印が押されています。おそらく、当時は融通座で芝居と並行して映画も上映されていましたから、改装して歌舞伎の回り舞台を設置した翌年、大正5(1916)年公開の日活映画『忠臣蔵』が上映された時の広告と思われます。

尾上松之助 121212121 市川壽美之丞11111
尾上松之助(目玉の松っちゃん)   市川寿美之丞

『忠臣蔵』に出演した尾上松之助と市川寿美之丞の正装姿。目玉をギョロリとむく「目玉の松っちゃん」こと尾上松之助(本名 中村鶴三 1875〜1926)は、生涯1000本以上の作品に出演したといわれる無声映画時代の最初のスーパースターであり、日活の重役も兼ねていました。活躍期間は、明治42(1909)年から死去する大正15(1926)年までのわずか17年ほどであり、おそらく短編の作品が多かったのではないでしょうか。いわゆる活動写真(映像)のトリックを使った「忍術奇術」や「英雄豪傑」映画が中心でした。市川寿美之丞については、松之助一座幹部俳優と写真のキャプションにありますが、日活の松之助映画の多くに共演者として名前を連ねています。

『宇和島騒動』は、3代目市川猿之助が昭和52(1977)年復活上演して話題を呼びましたが、松之助は大正4(1915) 年と同8(1919)年に日活大将軍撮影所製作・映画『宇和島騒動』で主役山家清兵衛を演じています。大正5(1916)年生まれの大村正二さん(2011年・96歳没)は、少年時代に父親と一緒に融通座で松之助の芝居を見たと話していましたので、映画以外の実演でも松之助が融通座に来ていることはほぼ間違いありません。

松之助が人気者になった要因は、当時の歌舞伎はゆっくりした仕草の決まったスタイルでしたが、「日本映画の父」といわれる牧野省三は活動写真のスピーディーな動きに目をつけました。松之助の軽快な早変わりや宙乗りなどで成功を収めたのでした。3代目市川猿之助の「スーパー歌舞伎」 にも一脈相通じるものがあります。

大正15(1926)年9月11日、日本映画最初の大スター・尾上松之助が51歳で死去すると、葬儀は同16日に日活社葬として営まれ、葬列の沿道には20万人が埋めつくしたといわれています。東京国立フィルムセンターには、遺族から寄贈を受けた「葬儀実況フィルム」が保管されており、日活大将軍撮影所を会場とする焼香には、宇和島市出身の伊藤大輔監督や衣笠貞之助、阪東妻三郎らの姿も見られます。日活の幹部クラスは全員揃いの裃(かみしも)を着て「さながら京都の時代祭を思わせた」と伊藤監督はのちに語っています。

つけ加えると、松山の映像作家・故上田雅一によると、松っちゃんの全盛期約200本以上の作品を撮影したといわれるカメラマン川谷庄平(高知県安芸市出身)は、戦後、松山城小天守復元工事の記録映画づくりに協力しています。川谷の長男庄一は会社員でしたが、8ミリ映画ながら「反戦平和」をテーマにした秀作を発表。当時松山、宇和島、高知などにシネマクラブ(個人映画の会)が盛んで、よくこの3都市各地で上映会が開かれていたそうです。前出の大村正二さんは宇和島のクラブの世話人でした。

川谷の三男が「ピラニア軍団」でブレイクした川谷拓三で、その早世が惜しまれますが、宇和島市出身で「おんな川谷」とよばれた女優・丸平峰子(=峯子 本名 清家知子)と脚本家・監督で東映育ちの井上眞介(第1回監督作品『夏の別れ』)は、いずれも東映在籍の縁で川谷とつながりがあります。丸平は宇和島東高等学校卒業後に知人の紹介で東映京都に入社となっていますが、「松っちゃん」時代と重なる『雄呂血(おろち)』の名脚本家・寿々喜多呂九平(すすきた ろくへい)が母方の縁戚にいたことも関係しているようです。

松之助映画の終えんとともに、伊藤監督は大河内傳次郎との名コンビで、スーパーヒーローではない、リアルな人間の心や哀しみを描いた「幕末剣史・長恨」や「忠次旅日記 三部曲」を生み、映画の革新が始まるのです。「チャンバラ」を芸術にした伊籐作品のなかでは、映画人として伊藤の後輩にあたる映画人井上監督によると、戦後の『座頭市地獄旅』の脚本が絶妙な語り口で大好きな作品とのこと。

参考資料:
「キネマな面々」上田雅一著/キネマ旬報社刊
「狂気のなかにいた役者・川谷拓三」奥薗守著/映人社刊
「日本映画俳優全集・女優篇」キネマ旬報社刊
「えひめ雑誌(平成2年6月号)」愛媛新聞社刊

 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

w

%s と連携中