宇和島 芝居・活動小屋幻景 3

第3回 追手通りの融通座 後章

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築地のあやめ会の温習会 昭和12(7937)年

築地のあやめ会第5回の温習会が融通座で開催されたのは、昭和12(1937)年5月18日。温習会とは「おさらい会」ともいい、舞踊、音曲など芸事を習った成果を発表する会のことです。舞台の上の、築地花街の芸者さんによる清元「道行旅路の花婿(みちゆき たびじの はなむこ)」は、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』の通称『お軽勘平(おかる かんぺい)』で、左側の花道は早野勘平と腰元お軽の二人。清元(きよもと)とは、歌舞伎などの伴奏音楽として用いられる三味線音楽で浄瑠璃の一種です。左側上に、せり出した二階席の一部と観客が写り込んでおり、その右手に「品は一番 電話は二番 田中電機百貨店 船大工町」の広告幕が見えます。

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「四季山姥」 昭和10(1935)年頃

温習会より少し前の写真ですが「長唄 四季山姥」の演題がかかり、お囃しの三味線衆の席が右側に設けられています。「四季山姥(しきのやまんば)」は長唄の曲名で文久2(1862)年3月開曲。11世杵屋(きねや)六左衛門作曲。山姥の前身を傾城(けいせい=遊女)にして四季の山めぐりをきかせた名曲として知られています。中央の傾城 に扮した女優が熱演しています。宇和島の南と北に新地(花街) があり、追手、袋町、新町に芸妓置屋や料亭があった時代には、傾城も身近な存在だったのでしょう。右上の方の黒い横断幕に、当時恵美須町にあった松浦本店や、追手通りにあったタナベ眼鏡店など、数店のなつかしい名前が並んでいます。

戦後、娯楽の移り変わりとともに「融通座」から洋画ロードショーの「スバル座」へ変わり、たくさんの変遷を経て、最後は3ホールを有した「宇和島シネマサンシャイン」に。それも、平成17(2005)年には廃館してマンションになり、10年ひと昔とすれば、この場所に映画館があったこと自体もうひと昔前となりましたが、キャッチフレーズばかりで中身が薄っペら、何の観光資源もない宇和島に次の10年でどんな文化が花開くのでしょうか。

融通座は、さまざまな役者や芸人の芸術家の登竜門の時代があったわけですが、宇和島から人材を輩出するという意味でも大きな貢献をしています。たとえば、「アニメソングの帝王」水木一郎の育ての親・故和田香苗は、この劇場やシンゲキでバンドマンをしながらプロの作曲家をめざしていました。

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シンゲキ前 宇和島時代の和田氏 昭和32(1957)年

写真のバイクに乗る男性は、宇和島でバンドリーダーをしていたころの和田香苗で、恵美須町・シンゲキ(新栄劇場)向かいのみき呉服店と鹿野内科の間にあった和田自転車店の長男でした。私の父田部茂雄(88歳)の昔話では、昭和20(1945〜1954)年代には和田さんを中心に音楽好きが集まり、灯台(現県漁連)付近でギターの練習していたとのこと。

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和田香苗リサイタルのチラシ 昭和44(1969)年頃

宇和島商店街連携主催、大宮ホールで開催された和田香苗リサイタルのチラシです。扇ひろ子の「新宿ブルース」で大ヒットを飛ばした2年後の昭和44(1969)年頃。畠山みどり、扇ひろ子、加賀城みゆき、有田弘二と、和田門下生といわれるそうそうたる顔ぶれが総出演しています。ちなみに、昭和42(1967)年有楽町日劇の「扇ひろ子リサイタル」で、和田さんがタクトを振る楽団の前で彼女が歌い、また彼の師匠ともいえる古賀政男が応援に駆けつけたようすを私はつぶさに目撃しました。

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第1回ゆかたショー 昭和24(1949)年頃

宇和島の誇るマルチアーチスト・故河野一水さんは、追手の石崎百貨店の経理担当が社会への最初の出発点でした。近くにあった融通座で舞台監督や美術から洋楽や和楽指導まで手伝っていたようです。戦後の昭和24(1949)年頃から、宇和島呉服組合が浴衣や着物のファションショーをたびたび開くようになりましたが、舞台前列の左から6人目に座る男性が河野さんです。のちに、宇和島唯一の牛鬼木彫作家として活躍するようになったのは衆知の通りですが、後継者がなく、宇和島オリジナルの本物芸のひとつが消えたのはほんとうに惜しまれます。

融通座以外でも、津島町の緑座で興行をしていた土居興行から故土居甫(ピンクレディーや「宇和島ガイヤ」の最初の振付師)が生まれ、愛南町平城の岡田興行(現岡田木材)から日本を代表するジャズ・ベーシストの故岡田勉が育って「南レクジャズ・フェスティバル」に一役も二役も買っています。このように、劇場や映画館の文化が有能な人材を生み育ててきたことは間違いないのです。現在のように、映画館どころか文化施設ゼロの宇和島では、文化は育たないといっても過言ではないでしょう。

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宇和島呉服組合のきものショー 昭和26(1951)年

最後は、ちょと変わった写真をお目にかけましょうか。戦後は、GHQの規制で映画製作も自由にできなかったり、都市部では劇場の多くが戦火で焼失しており、芸能人の地方巡業が盛んだったようです。これは、前の写真の翌々年、昭和26(1951)年11月12日に開催された呉服組合の融通座での「きものショー」です。各店が顧客の中からモデルを選び、着物や浴衣を提供しました。後方の顔ぶれはほとんど市内の呉服店主たち。きもの嫌いで有名な“ブルースの女王”淡谷のり子(前列右から3人目)がゲスト出演しているのが不思議です。淡谷の右隣りの洋装の美人は「リンゴの唄」の並木路子との声もありますが…。このふたつの真相は謎ですが、知っておられる方があればご教示いただければ幸いです。

 館主のつぶやき ふたりの歌姫と戦後の融通座

昭和26(1951)年の4月、昭和最大の歌姫美空ひばりが融通座に初来演。少女スターひばりの爆発的人気に、宇和島駅開設以来の数千人がつめかけ、駅前の広場を人垣で築いた記録は過去最高、と同34年(1959)年の愛媛新聞が報じています。芝泰司さん(79歳「芝サイクル」経営)の話では「この時の入場料は300円。当時16歳の自転車屋の店員で給料を貯めていったが、それでも破格の入場料だった」という。「入口前は柵がしてあり、延々と並ぶ人の行列が清水閑一郎本舗(現立花仏壇本店)付近までできていた」そう。美空ひばりは昭和26年と28(1953)年に来演して、昭和30年代(1955〜0964年)には融通座が洋画ロードショー劇場に変わっていたため、中央町のマルゲキ(丸の内劇場)で公演したようだ。したがって3回来宇したことになっています。

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旧杉田劇場跡と跡地案内板 横浜市磯子区 平成23(2011)年 写真撮影:藤本征史氏

敗戦翌年の昭和21(1946)年4月頃、横浜の杉田劇場でデビューを飾った美空一枝(かずえ  本名 加藤和枝)は、俗曲の音丸の前座歌手として地方巡業するようになる。高知の長岡郡大豊町(おおとよちょう)でバスが転落して10歳のひばりがひん死の重傷を負ったのは同22(1947)年9月。生前のひばりは、四国公演の際は必ずここを訪れていたという遭難の地、大豊町の大杉には、現在記念碑が建ち観光地としても脚光を浴びています。この事故にあう前に宇和島の融通座でひばりが公演していたという話もあります。

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『悲しき口笛』シルクハットに燕尾服の美空ひばり銅像 横浜市中区 平成13(2001)年

宇和島のスーパースター「お恵ちゃん」こと松山恵子(本名  岡崎恒好 つねこ)は、融通座で同い年の天才少女歌手のひばりを見て衝撃を受け、歌手を夢見て歌謡教室に通い始めたエピソードがあります。松山の生年月日は昭和12(1937)年4月10日生まれ。ひばりは同年5月29日で、2ヶ月弱しか変わりません。

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小学生時代のお恵ちゃん(中央) 写真提供;佐藤美智子氏

お恵ちゃんと小中学校からの親友で誕生日も同じ佐藤美智子さん(77歳 丸之内在住)によると、この昭和22年の時点でひばりと出会った可能性は否定されています。やはり、新聞記事の通り、ひばりの宇和島初公演は26(1951)年春、お恵ちゃんが上阪したのはその年の秋だから、このときに二人が出会った可能性は大きい。百歩譲ってひばりが22年に融通座に来ていたと仮定しても、音丸がメイン歌手であり、美空ひばりを名乗る前の「美空一枝」という歌のうまい前座の少女歌手に過ぎなかったのだから、記録に残ることもなかったでしょう。

26年の春ひばりが来演したころには、『東京キッド』『とんぼ返り道中(越後獅子の唄)』『父恋し(私は街の子)』の3部作が主題歌・映画ともに爆発的に大ヒット、知名度抜群の少女スターになっていました。平成8(1996)年のテレビ出演でお恵ちゃんが熱く話したのは、ひばりの歌を聴きながら一生懸命痛くなるほど手を叩いて声援を飛ばし、「私ももっと歌が上手くなるよう頑張って、大きな家を建てたらみんな幸せになれるかな」と彼女の兄にいったそうです。しかし、前述の芝さんの話にもあったように、昼夜2回のひばり公演は大入り満員、しかも高額な入場料だったわけで、本当に彼女が見たかどうかに付いては?マークが付きます。

その前年にお恵ちゃんは、中央キネマの歌謡コンクールで大人の出場者を押えて入賞。小学校5年生から通った堀端の中村義雄先生(故人)によると、ひばりの「悲しき口笛」や「越後獅子の唄」を練習曲にしており、いつのころからひばりを意識したかはわからないが、年齢も同じ少女が、一方はすでに映画や歌を通して戦後の輝ける星であったのだから、相当のライバル心を燃やして発奮材料にしたことは容易に想像がつきます。ひばりを目標にした少女は、少し出遅れたが昭和30(1955)年18歳でデビュー、その後紅白歌合戦には合計8回出場。「未練の波止場」「だから云ったじゃないの」は日活で映画化され、ひばりと同じように念願の映画出演も果しました。

ふたりがお互いをどう思っていたのかはわかりませんが、お恵ちゃんは忘れられない人として江利チエミの名をあげています。昭和38(1963)年の第14回紅白歌合戦で「別れの入場券」を歌った時タイミングよく「おっ恵ちゃん!」とチエミからかけ声が飛び、それ以来自分で「お恵ちゃん」を名乗るようになったのだという。3人娘を組んでいたひばり、チエミ、(雪村)いづみもお恵ちゃんも、皆同い年で戦後の苦しい時代を生き抜いた同志だったのかもしれません。

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トレードマークの 白いハンカチと裾の幅が広いドレスで歌うお恵ちゃん
(NHKホール) 写真提供:佐藤美智子氏

私とひと回り以上年齢が違うので、物資も何もかもが欠乏した戦後間もない時代に育ったお恵ちゃんのことは全くわからないのですが、小林幸子ファッションの走りともいわれるド派手な衣装の裏には、幼少期からの苦労多き体験があるのでは。五木寛之は、彼女を評して「別れとかさびしい曲が多いが、愛媛の風土のように意外とカラッとしている」と述べていますが、それは、彼女の人生に対する真摯な姿勢から来ているのではと思っています。

平成12(2000)年11月、宇和島では最後となったコンサートが宇和島駅で実現。この時彼女の大ヒット曲「お別れ公衆電話」にちなみ、改札口左横に「携帯電話専用」というユニークな電話ボックスが誕生しました。コンサートの収益金が当てられた(つまり松山が駅に寄贈)といわれますが、今はプラットホーム側のほとんど目立たぬ場所に移設されているのは、ファンには淋しい気がします。

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宇和島駅コンサートとお恵ちゃん電話ボックス
平成12(2000)年   写真撮影:河野藤夫氏

ひばりは平成元(1989)年6月4日に間質性肺炎で逝去。お恵ちゃんは17年後の平成18(2006)年まで歌い戦い続けて、2月に肝臓がんで闘病中であることをNHKテレビで自ら告白、ファンに感謝の言葉を述べた後入院し、容態が急変して5月7日に亡くなった。ひばりが記念館や記念碑など全国各地につくられているのに対して、同じ時代を生きた国民的スターだったにもかかわらず、松山恵子の足跡を示したものはこの電話ボックス以外宇和島には何ひとつない。「故郷(くに)は宇和島 港町…思い出します 昨日のように…♪」故郷喪失者としての宇和島への望郷を歌った『女の劇場』の記念碑が、宇和島に実現できないものでしょうか。

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宇和島 芝居・活動小屋幻景 3」への2件のフィードバック

  1. さすが、童話のお姫様のドレスは、スカートの大きくふくらんだドレスのほうがいいよね!!

    • あのお恵ちゃんドレスは「お恵ちゃんは足が太いから、足が隠れるこんなドレスが似合うと思います」と小学生ファンの手紙に描かれた1枚の絵から生まれたそうですね。私は一度だけお恵ちゃんと接触を持ったことがあります。ネット上に、彼女のデビュー当時の写真とともに紹介記事を書いたのですが、次の2点についてお叱りを受けました。写真は自分が一番気に入っている最新のものに差し替えること。もう一つは「現在もNHKテレビの懐メロ番組に華々しく登場」と書いていた「懐メロ番組」のところを消してほしいという要望があり、すぐに文章を直しました。亡くなる2年ほど前のことですが、「生涯現役の第一線歌手である」という気迫がみなぎり、圧倒されたことを覚えています。

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