宇和島 芝居・活動小屋幻景 4

第4回 追手門横の鶴島館

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大正初期 最初の鶴島館

追手通りの「融通座」が芝居中心であったのに対して、映画専門の劇場(活動常設館)を建てようと、石崎忠八(初代)を発起人に大正4(1915)年に開設されました。国宝追手門に隣り合わせて「鶴島町」と同様、宇和島城の別称「鶴島城」から「鶴島館」と名づけられました。南予初の映画館として日活系映画上映が興行の始めでした。開館当初は、丸之内和霊神社側が正面でしたが、大正10(1921)年頃東方に向きを変えて建物も建て替えられて、当初より規模が大きくなりました。

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大正後期 2代目鶴島館

大正13(1924)年には中央キネマと改称され、内部も改造されました。日活やマキノ映画を上映しましたが、当時は音声・音響や台詞(セリフ)の入っていないサイレント(無声)映画の時代で、弁士が5人もいたといいます。専属楽士(がくし)たちが、クラリネットや三味線といった和洋折衷でチンドン屋よろしく市中を毎日宣伝して練り歩いていた、と語り伝えられています。夜間だけの営業でした。

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追手門と中央シネマ 昭和10(1935)年頃 写真提供:杉山 宏氏

追手門(おうてもん-おたもん)と中央キネマの位置関係がよくわかる昭和10(1935)年頃の写真です。現在の宇和島信用金庫本店から少し入った通りから撮影されており、追手門の石垣の後方が中央キネマの建物です。門の手前には、海軍(予科練)指定の「にわか食堂」や「村さめ食堂」があって、右方の門をくぐると、昭翠園(しょうすいえん)という小さな公園がありましたが、現在では国道の一部と山本内科から愛媛新聞社あたりまでになります。

「にわか」は「二◯加寿し」のユニークな店名看板が残るのみですが、「村さめ」は追手の「こみつ食堂」とともに内港の「おこわ横丁」の伝統を受け継ぐ、宇和島のソウルフード(B級グルメ?)のおこわ、ばら寿司やうどんをいまも提供しています。

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戦後の中央劇場 昭和30(1955)年頃

戦災により追手門のやぐらは焼失しましたが、石垣が防御したせいか、中央キネマ(中央劇場)は焼け残りました。昭和30(1955)年12月頃の写真ですが、日活の「K」マークと北原三枝さん(石原まき子=石原裕次郎未亡人)らしき顔の大きな絵看板が見えます。同年7月、『少年死刑囚』上映の際、中央劇場のスタッフだった池田義周氏(現池田商会会長)が、たまたま内海突破(うつみ とっぱ)が帰省中と知り交渉し、この劇場で突破は舞台挨拶に立ったそうです。この映画には突破本人が囚人役で出演していたといわれています。

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内海突破作「達磨図」 提供:池田義周氏
突破から池田氏に贈られた色紙 昭和30(1955)年

この後、劇場はふたたび和霊神社側を正面に向きを変え建て替えられ、同33(1958)年「日活菊美ど里劇場」になリ、石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎らアクションの〈ダイヤモンドライン〉、浜田光夫、吉永小百合の〈純愛コンビ〉、舟木一夫らの〈青春歌謡路線〉と40年代初めまで日活黄金時代を築きました。47(1972)年から洋画ロードショーの「菊美ど里劇場」となりましたが、60(1985)年12月末火災で焼失して70年の歴史に幕を閉じました。

「昭翠園の美少女伝説」をときに古老たちから耳にすることがあります。戦前追手門の前に昭翠園という小公園があって、現在の愛媛新聞社ビルから国道寄りに「西山琴三絃店」がありました。のちに天才女優といわれた轟夕起子(本名 西山都留子 つるこ)は、叔父である西山憲一経営のこの三味線店を頼り、大正13(1924)年春から大正16年頃まで宇和島に移住しています。西山家はもともと宇和島藩士族(御小人組 おこびとぐみ)でした。

晩年の轟は、石坂洋次郎作品の裕次郎や吉永小百合の母親役や、高橋英樹の『男の紋章』シリーズでは主人公の実母でありながら敵対する組の女親分など、日活映画で脇を固める役に徹しました。少女時代に仲良しの蔦屋旅館の娘さんと遊んだ昭翠園前にあった劇場が「中央キネマ」。戦後「日活菊美ど里劇場」となりますが、この当時はまさか、自分のデビュー時と晩年の出演作品がここで公開されるようになるとは思わなかったでしょう。

 館主のつぶやき 花形弁士・坂田楠香の世界

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少年弁士時代 大正中期     20代の頃 昭和初期

昭和初期、中央キネマの専属として活躍したスター級の活動弁士〔注1〕坂田楠香(本名河野数馬 伊予郡砥部町出身)。「東山三十六峰 静かに眠る京洛の巷 折しも起こる剣戟の響き…」とは新撰組の名調子。その低音の美声に他の弁士をまったく寄せつけず、人気を独占したといわれています。大正末、松山の新栄座から中央キネマに移籍しました。惚れ惚れするその口跡に、同郷の井上正夫〔注2〕から劇界入りを薦められたり、「テンプルちゃん」〔注3〕の活弁を聞いたというオールドファンの話もあります。10代の頃から美形の少年弁士として県内で知らぬ者はいなかったそうです。宇和島で勇名を馳せた弁士はほかに、大野広美や今井龍光らがいました。

大正初期の宇和島には坂本貞次郎〔注4〕という弁士がいましたが、その門弟にあたります。本町の「坂本ポンプ屋」に坂田一家は親子3人で、公私ともに世話になっていたようです。そこのご隠居が坂本貞次郎で、若い頃活動弁士をしており芸名は坂本楠水。アレクサンドル・デュマ原作の洋画『鉄仮面』の活弁を得意としていたといわれています。

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坂本佳子さんの手を引く河野節子さん(右) 昭和23(1948)年
写真撮影:故上田雅一氏

昭和23(1948)年、袋町商店街(旧袋町浜通り)の「ダルマヤ化粧品店」前を、貞次郎の孫娘で「本町の美少女」で評判だった佳子さんの手を引きながら歩く楠香の一人娘・河野節子(本名 梅原節子)さん。遠くの並びは新橋商店街。流行のトップモードを着こなし颯爽と袋町をゆく若い女性に見えますが、着ているのは実はアメリカの救援物資(ララ物資)。それでも、宇和島に身を寄せるべき居場所もなかった傷心の少女は、大人びた華やかなファッションに心弾ませていたそうです。

敗戦後、中国のコロ島から引き揚げた彼女は成長するにつれ、演劇に夢中になり、母親から父親が弁士であったことを聞かされたようです。父親譲りの美声と才能を生かして戦後松山で司会業や女優、漫画家としても活躍されていましたが、残念なことに平成20(2008)年10月急逝されました。もっともっと楠香氏のことをお聞きしたかったのですが…。

節子さんが物心つく頃にはトーキー登場で、楠香はすでに職を離れており、弁士を辞めてからは将来の放浪癖からあちこちを転々として、あらゆる職につき、また離れてを繰り返して、結局旧満州に渡りハルビンで会社員勤めとなり、ようやく落ち着いて親子3人のもっとも幸せな時代が訪れたが、昭和20(1945)年の敗戦とともにすべてを失った。バラック(簡易住宅)に仮寓したが、楠香はすっかり気力を失い、博打に明け暮れて母子を捨てて行方不明。節子さんにとってハンサムで美声の「瞼の父」はずっと憧れの的だったらしい。2枚目大スターは、昭和34(1959)年九州の別府方面でさびしく世を去ったという。

節子さんと私との出会いは、平成12(2000)年写真展「50年目の再会」で、松山の映像作家・故上田雅一氏を通してでした。私が宇和島の「伊藤大輔映画祭」を企画・開催するなかで、名古屋のわかこうじ氏、東京の澤登翠(さわと みどり)氏ら活動弁士を招き、何度か活弁付き上映会を行ないました。生前、節子さんは「ぜひ一度生(なま)の活弁を聞いてみたい」といっておられました。上映会の度にご案内したのですが、あまりに多忙な日々を送られており、彼女の存命中にそれが実現できずにほんとうに残念でした。

昭和40年代(1965年〜1974年)までは、活弁イベントで菊美ど里劇場にも来演したと語ったのは、伊藤大輔監督の映画『忠次旅日記』で平成10(1998)年に口演した弁士「わかこうじ氏」でした。映画が無声から有声映画に切り替わった時期は昭和10(1635)年前後になりますが、戦後もしばらくはサイレント(無声)映画が珍しさからもてはやされ、「なつかしの活動大写真」として弁士や楽団付き上映が全国的に行なわれたようです。

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歌う荒井恵子 「陽気な喫茶店」NHK公開録音 昭和26(1951)年頃

鶴島館のところで触れた売れっ子コメディアン・初代内海突破(うつみ とっぱ 昭和43年没)は、愛媛県南宇和郡内海村(現愛南町)出身。この劇場ではありませんが、昭和26(1951)年頃に、中央町の丸の内劇場で「陽気な喫茶店」というNHKの人気番組の公開録音にも出演しています。「ギョギョッ」というギャグが流行語になった突破と松井翠声との名コンビによるかけ合い漫才トーク、のど自慢が生んだ歌手・荒井恵子の3人によるバラエティー。

テレビも民間放送もなくラジオが唯一の娯楽といった時代、戦後の暗い世相に笑いをもたらしました。冒頭、「松井さん、松井さん」という相棒の内海突破の声が耳に残っているというファンも多くいますが、松井は活動弁士から転身した話芸の天才といわれています。宇和島で2回活弁公演した澤登翠さんの師匠・2代目松田春翠は、名前からすれば何らか松井翠声と関係があったのかもしれません。

〔注1〕無声映画の時代、その内容や俳優の台詞を語りで表現した日本独自の専門の職業。普通のサラリーマンが月給5、60円のころ弁士は200円は軽く稼いでおり、人気弁士ともなると映画スター並の収入があり、女性ファンにもみくちゃにされたという。

〔注2〕新派俳優から井上演劇道場を興し、演劇の大衆化に尽力するとともに、「活動写真」を「映画」という芸術に高めた功労者のひとり。衣笠貞之助の実験的作品「狂った一頁1926年」や、伊藤大輔(宇和島市出身)にシナリオを依頼した『地獄船』(1922年(原作はチャップリンの『キッド』)や『噫(ああ)無情 全2巻』1932年に出演。宇和島の融通座にもたびたび来演した記録がある。

〔注3〕1930年代のアメリカ映画の天才名子役シャーリー・テンプルのこと。ただ、彼女はトーキー(有声) 映画時代の子役だったので、ひょっとしたら、音を消して活弁で見せていたのかも。宇和島で少女時代を過ごした松山恵子も彼女に似たちじれっ毛で「テンプルちゃん」のニックネームでよばれていたそうだ。

〔注4〕幡多人会々長で、昭和11(1936)年、商工会議所設立後の第1回商工会議所議員もつとめた。坂本ポンプ屋は本町3丁目(現中央町1丁目・宇和島グランドホテル)付近にあった。

参考資料:
「風雪70年思い出の記 続篇 完結篇」兵頭三明著/講談社出版サービスセンター
「シネマな面々」上田雅一著/キネマ旬報社
「戦後・松山城下ー町と人」ウエダ映像社/1977年

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