宇和島 芝居・活動小屋幻景 5

第5回 鶴島町にあった芝居小屋

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共楽座 大正6年

宇和島の経済界を築いた堀部彦次郎が、宇和島土地会社を設立して周囲ほとんどが湿田であった鶴島町、朝日町一帯を埋め立て宅地を造成して、宇和島城の別名「鶴島城」から鶴島町と名付けられたのは大正5(1916)年4月でした。続いて、新興地鶴島町の発展と新しい住民の娯楽のためにと芝居小屋建設を計画、明治41(1908)年に旧栄町に建築されていた福井座を移転、改築して「共楽座」と名も改められ、翌6(1917)年に開設されました。現住所では錦町になります。

こけら落とし〔注1〕当日撮られた写真といわれていますが、内子座に似た外観の本格的な純和風建築です。紅白幕と酒樽が積まれており、2階屋根の中央に太鼓やぐらが配され、アーチ状の杉葉門が入場口を示しています。左端に人力車が止まっており、右後方には天満山が臨まれ、埋め立ての直後でまわりは広々と開けています。

融通座に対して、共楽座はもうひとつ庶民的な芝居小屋として親しまれました。昭和に入り、場所も近接地に移って映画館風の建物に変わり、昭和10年代後半あたりまで営業していたようです。正確な閉館理由は不明ですが、戦災による焼失ではなく、同座が現在のJR宇和島駅裏付近にあったことから、その後は国鉄用地になったのでしょうか。 芝居のぼりに名前が見える「嵐吉太郎」は、江戸後期からの関西歌舞伎の名跡のようです。

今日ら萠656565698観劇前売券(写真上)に「合同大一座」として2名の出演者が並んでいますが、市川右田次(うたじ)については、関西歌舞伎のスターだった2代目市川右団次(うだんじ)の門弟で、昭和3(1928)年アメリカのサンフランシスコで公演した右田次のことではないかと思われます。従来、2代目市川左団次(さだんじ)によるソ連公演が歌舞伎における初めての海外公演とされていますが、左団次一座がモスクワで公演をするより半年早い、同年1月24・25日の両日、大阪からきた市川右田次一座がサンフランシスコで「先代萩(せんだいはぎ)」などを上演し好評を博した記録があります。しかし、その後の資料に乏しく、彼の存在そのものは謎に包まれています。

嵐璃徳(りとく)は、歌舞伎界に始まって日本映画の父・牧野省三が監督した日本初の時代劇映画、日本初の剣劇映画に出演。サイレント期の映画俳優でした。中川紫郎監督作品にも多く主演していますが、中川監督は脚本家、プロデューサーとしても有名な帝国キネマ草創期の大監督。当初璃徳一座の座付作者をしており、多くの嵐璃徳主演の芝居や映画作品の脚本監督を手がけています。大正10(1921)年8月公開の帝キネ作品『怪談波の宇和島』も中川監督、璃徳主演ですが、同映画は題名からすると、やはり「宇和島(和霊)騒動」ものの1本ではないでしょうか。

さらに時代をさかのぼると、宇和島市出身で自由民権論者だった末広鉄腸(てっちょう)は、明治24(1891)年4月追手通りの融通座で政談演説会を開き喝采を浴びていますが、その翌年には和霊騒動を題材にした政治小説『南海の激浪』を発表します。昭和8(1933)年7月には同題名の無声映画も製作されますが、原作が若水章三となっていますので、題名のみ鉄腸から拝借した映画だったと思われます。伊藤大輔監督とコンビを組んでいた松本泰輔が主役の山家(やんべ)清兵衛を、嵐璃徳が後見桑折左衛門を、敵(かたき)役の桜田玄蕃(げんば)は名優2代目尾上松緑が演じています。〔注2〕
ともかく、宇和島関係の作品に『南海の…』というタイトルが付き始めたのは、鉄腸作品からではないでしょうか。〔注3〕

 

〔注1〕こけら(杮)落としとは、新たに建てられた劇場で初めて行なわれる催しをいう。「こけら」とは木片のことであり、建設工事の最後に木片を払うことが語源になっている。

〔注2〕南豫時事新聞(昭和8年7月1日)によると、同紙9千号記念として和霊神社とその祭神を全国に宣伝する「和霊祭神映画」製作を「新興キネマ」に依頼し、全国封切に先駆け同年7月21日から25日まで融通座と共楽座で公開されたようだ。芝居や映画でこれまで描かれた荒唐無稽を排して史実を忠実に作品化したと紙面にあるが、今はない幻のフィルムなので確かめようもないが…。山家事件(宇和島騒動)そのものが現在にいたるも実相はわからず、いまだに複雑で微妙な問題を遺している。

〔注3〕大正13(1924)年、映画『南海の春』では現代劇の俳優・高田稔が来宇して石応(こくぼ)や北陽花街などで撮影が行なわれた伝え話がありますが、もしかしたらご当地映画の走りだったのかも。戦後作品では、昭和35(1960)年の『南海の狼火』(宇和島ゆかりの山崎徳次郎監督・小林旭主演の日活アクション映画)があります。宇和島とは関係ない鉄腸作品『南洋之大波瀾』は、自由民権運動の旗手末広鉄腸の“一期一会(いちごいちえ)の友”で、「フィリピンの国民的英雄」ホセ・リサールを日本で初めて紹介した作品として知られています。

 

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宇和島館 大正10年頃

大正8(1919)年鶴島町中通りに芝居小屋としてお目見えした「宇和島館」。大正10(1921)年頃の模様ですが、現在地は鶴島町の「焼鳥・阿呆鳥」周辺にあったという土地の古老の声も聞かれました。やがて、活動常設館(映画館)として改装、タカマツプロ、東亜キネマといった大正から昭和初期にかけての映画製作・配給会社(無声映画)の作品を主に上映しました。唯一ここだけは座り座席のある映画館として知られ、客は板の間にござを敷き座って見たようです。

スクリーンの前にサテン地の緞帳(どんちょう)を初めて設けていました。映写が始まるとその緞帳の絵がカラー映画のように浮き出し、すばらしかったといいます。館主は実業家で名士の山野幸助で、いつも常連客には酒や肴をサービスして大盤振る舞いするなど、数々のエピソードが伝えられています。ハッキリした記録はありませんが、地元の古老に尋ねても、同館は昭和10(1935)年前後には姿を消しているということですので、ここも短命に終わった劇場のひとつだったのでしょう。

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北陽の芸妓(げいこ)たち 宇和島館 大正10年頃

大正10年頃大正10(1921)年の宇喜五郡共進会(宇和・喜多五郡連合共進会)の際の催し物のひとつとして、鶴島町の宇和島館で北陽花街の芸妓(げいこ)さんたちが舞踊を披露しました。後列の男の人たちは芸妓を抱える置き屋の主人でしょう。  背景には4枚の泥絵(どろえ)看板がかかかっていますが、左右は舞台写真(名場面)のようです。泥絵は浮世絵の一種で、顔料に胡粉を混ぜて描かれたもので、遠近を強調して強烈な色彩を必要とする看板絵などに用いられていました。

融通座北陽芸者1共進会110 融通座北陽芸者2共進会11122
 北陽芸妓の舞踊 宇和島館舞台 大正10年頃

大正時代の宇和島では、追手の内町、和霊神社前の北新地ともよばれた北陽、元結掛の南新地が三大花街でした。築地花街は昭和7(1932)年須賀川付け替え以降に誕生していますので、「築地絵の町…生きた人形の花の街」と歌われた「築地小唄」もこの時代にはまだ登場していません。市制施行の半年前、大正10(1921)年4月に発行された共進会の写真帖に掲載された写真ですが、従来融通座で行われた演し物(舞踊供覧)ということになっていましたが、集合写真の芸妓の衣装から推測すると宇和島館でしょう。北陽の3階建ての藤江検番ができたのはその前年頃で、須賀川の川端から移ってきたので「川端芸者」といわれたと伝わりますが、その本格的な舞妓姿には驚かされます。

“鳥人”と評されたアクロバット役者・高木新平が、和霊神社神苑にセスナ機で飛び下り、そのまま宇和島館で実演した、というエピソードを故河野一水さんから聞いたことがあります。もしかすると「連鎖劇」のようなものだったかもしれません。連鎖劇(れんさげき)とは、芝居のなかに活動写真を幾場面も交互に採り入れ、連続して上演する演劇のことで、宇和島の融通座にもよく来演した松前町出身の新派俳優・井上正夫が、大正初期に盛んに同劇を上演しています。トーキー(有声)映画になってからも、新築地劇団が「キノドラマ」と称した公演記録もあります。

大正14(1925)年から翌15年にかけて製作された『南蛮寺の怪人 前・後篇』は高木新平主演映画ですが、これも一部宇和島でロケーションがあったという噂がありますが、さきほどの河野さんの話と混同しているかもしれません。軽妙な動きの高木新平は、尾上松之助同様、日本映画の父・牧野省三が育てた大スターでした。

昭和41(1966)年頃、東京の町田市に住んでいた私は、なんどか父の友人・土谷孝氏が支配人をしていた「池袋エトワール劇場」という映画館を訪れました。ハッキリしてはいないのですが、ここでは映画の他に実演の演し物があり、「連鎖劇」らしき時代劇を一瞬かいま見たような記憶があります。うろ覚えですけれど、「静」と「静」の芝居の合間に、たとえば山中の追っかけシーンなど「動」の部分がスクリーンに映写されていました。

 館主のつぶやき 宇和島の映画博士

松山の高岡眼科の高岡治彦先生は昭和6(1931)年の生まれ。旧制宇和島中学の2年生の時、戦争が終わり、教育制度が変わって昭和25(1950)年宇和島東高等学校第1回卒業生で、愛大理学部、徳島大学医学部を経て眼科医を開業されています。焼け跡のなかの厳しい現実を、映画館「中央キネマ」の暗闇のなかでは忘れることができたといいます。当時の中央シネマは、『ユーコンの叫び』『望郷』『地の果てをゆく』『商船テナシティー』など古い1930年代(昭和5〜14年)の欧米映画を見ることができるユニークな劇場だったようです。有数のシャーロキアン(シャーロック・ホームズの熱狂的ファン)としても知られ、愛媛新聞の四季録や「えひめ奥様ジャーナル」に綴られた〈シネマと旅〉など、自分が感動した世界中の名画の舞台へ旅立たれたエッセイは、我々を大いに楽しませて下さいました。高岡先生によると、中央キネマでは故石崎忠八氏〔注1〕としばしば顔を合わせたそうです。

大正5(1916)年生まれの石崎さんは本町追手の石崎商店の社長として有名でしたが、昭和50年代後半からのお付き合いとなる私が知っているのは「宇和島の淀川長治」と形容されるほどの映画狂。昭和31(1956)年芝居小屋「融通座」から洋画ロードショーの「スバル座」に切り替わった頃、館内の一室に「宇和島映画観賞会」の事務所を設けてその会長をつとめていたほどです。昭和11(1936)年3月来日中のチャップリンを偶然銀座の雑踏で見かけたというエピソードの持ち主でもありました。映画以外にも、文学や芸術全般に堪能な「モボ(モダンボーイ)」のオシャレで粋な紳士。どちらかというと、『映画だけしか頭になかった』『ぼくは散歩と雑学がすき』を著した植草甚一に共通するようなダンディズムに生きた人でした。

司馬遼太郎さんの『街道をゆく 南伊予・西土佐の道』〔注2〕でも、追手の斎藤鮮魚店2階の座敷を舞台に司馬さんを囲む宇和島の寄合酒(よりあいざけ)のメンバーとして登場されていますが、これを読むと司馬さんが一番人間的に親近感を持っていたのは石崎さんだったのではないかと推測されます。司馬さんの「アイルランド紀行」のきっかけになったドキュメンタリー映画『アラン 』〔注3〕の話題をしたところ、石崎さんも学生時代に観ており、感激した司馬さんからこのビデオが送られてきたそうです。ほかにも、宇和島ライオンズクラブやアマチャー絵画グループ「チャーチル会宇和島」の草分け的存在であり、戦後宇和島の文化的リーダーだったと思います。

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石崎忠八氏欧州映画講演会 昭和61年

昭和61(1986)年2月2日、商店街主催の映画祭イベントの一環で「1930年代のフランス映画」という演題で講演をお願いしたことがあります。会場は袋町商店街1丁目の赤松ビル3階の大ホールでした。私の仕事であるメガネづくりを例にとり、今は目の検査でも加工でも全部機械で簡単にやってしまうが、むかしはひとつひとつハンドメイドできめ細かい仕事をしていた。映画もものすごい勢いで技術が進んできたが、はたして映画は本当に進歩・発展し向上したのだろうか。感動を与えるのは、テクノロジーではなく手づくりにこそ価値がある、といったすばらしいお話でした。

この「タナベ昭和館」の前は18年ほど「アールギャラリー」という名称で絵画の展示・販売をしておりましたのでよく来店されましたが、晩年の石崎さんは、白内障で視力を失い歩行も少し不自由になられ、「目がクリアーに見えない」「この僕がステッキを持つようになったらおしまいだね」と嘆いておられたのが深く印象に残っています。

最近の宇和島では、この石崎さんのような文化人を失っています。具体的には、知識や経験豊富なインテリでありながら、一歩下がって相手の立場を尊重して耳を傾ける、謙虚な奥ゆかしさを持った人物ということになるでしょうか。それが、司馬さんが愛した時流に気軽に迎合しない、独立している宇和島人だったのではないでしょうか。時代風潮といえばいたしかたないが、今はその反対に自分の立ち位置ばかり強調し「先に言った者が勝ち」といった人間性も人格もなく、厚顔無恥で他所(よそ)では絶対通用しない“ウワジマイズム”の文化人ばかりになっているように感じます。

昭和50年代(1975年〜1984年)にも2ヶ月に1回程度、宇和島の映画愛好会による上映会が大宮ホールや商議所のホールで行われていましたし、これらの会場では、狭山事件の映画化『狭山の黒い雨』、宇和島出身の志賀圭二郎主演『詩雨(しう)おばさん』、今井正監督『小林多喜二』など社会性のある独立プロ作品や自主上映会も盛んであり、前にも書きましたが、大村正二さんらのプライベート映画の会「宇和島シネクラブ」も活躍したり、宇和島は過去には映画や映像文化が盛んな町だったといえます。

 

〔注1〕「移り変わる町並み 袋町篇」でも紹介した醤油醸造家の石崎、堀部、槙本は宇和島の御三家とよばれ、本町の石崎商店は別称石崎忠八商店ともいった。本稿に登場する石崎さんは、「共楽座」の最初に紹介した堀部彦次郎の子息に当たり、本名の堀部冬介(ふゆすけ)から石崎家に養子縁組して「忠八」名を襲名した七代目石崎忠八。本町追手で医療用医薬品、一般医薬品を卸販売する株式会社の社長だった。

〔注2〕司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』の第14巻。昭和46(1971)年から平成8(1996)年まで「週刊朝日」に連載されたうち、昭和53(1978)年6月15日から19日間、愛媛県南予から高知の西土佐にいたる旅を書いたもの。

〔注3〕昭和9(1934)年のイギリス映画で、アイルランド西岸の過酷な自然に囲まれた孤島「アラン島」に暮らす漁師たちのサバイバルな日常生活を描いたドキュメンター映画の至宝といわれる作品。

参考文献:
「ホームズ学入門ーコナンドイルは眼科医」高岡治彦著/近代文藝社 1983年 「懐かしの映画館」高岡治彦著/日本図書刊行会 2001年
「作句ノート」石崎冬介(忠八)著/広文社印刷 1978年 「〘三季録〙ノート」石崎忠八著/広文社印刷 1983年

資料提供:石崎慶久氏

 

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