宇和島 芝居・活動小屋幻景 6

第6回 旧北宇和郡にあった芝居小屋

今回は、平成17(2005)年の広域合併で宇和島市になりましたが、それまでは北宇和郡とよばれていた芝居小屋の跡地をブラブラ歩きしてみましょうか。旧市内の劇場とはそれぞれ異なった歴史と独特の雰囲気を持つ個性的な劇場ばかりです。

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丸井座 昭和初期 写真提供:鳥羽泰介氏

最初に、吉田町の丸井座を紹介しますが、宇和島の芝居小屋「旭(朝日)座」を、吉田町裡町の長福寺横に移築して「衆楽場」と名付けたのが吉田の劇場の起こりといわれています。宇和島の融通座や津島町の緑座同様、枡席(方形に仕切った席)と花道のあるすばらしい劇場でした。町回りや煙火打ち上げが開演を知らせたといいます。

舞台の右上の出演者名に名前の見える京山好子は、浪曲の「松島女流団」出身。「松島女流団」とは、大正7(1918)年、2代目広沢虎造〔注1〕が東京、九州、名古屋からいずれも18から22、3歳の若い女性ばかりの浪花節語りを集めて結成した「松島女流団 成美会」のこと。京山好子は名古屋から参加した美人浪曲師でした。

そのほか、九州からグループ入りした春野百合子は、丸井座や戦後宇和島の中央町にあった中座などにも、たびたび来演しています。明治のころ人気があった女流義太夫と同様、女流浪花節は大正時代のアイドル歌手並で人気があったといいます。余談ながら、「浪花節」と蔑称的にいわれていたのを「浪曲」と命名したのは、日吉村出身の井谷正吉〔注2〕と、同村の親戚に聞いたことがあります。

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戦後再建された吉田劇場 昭和39(1964)年 写真提供:鳥羽泰介氏

その後、大正時代に新しい経営者を迎えて丸井座になり、昭和15(1940)年には吉田劇場へと改称しました。昭和22(1947)年火災で建物を焼失しますが、すぐに再建されたそうです。写真は昭和39(1964)年12月、ノスタルジックなタイル張りの外装の前に並ぶ女性スタッフたち。右上に大映を代表する美人女優若尾文子の大きな肖像写真が掲げられています。戦前は芝居、浪曲、講談から女義太夫、戦後は映画が中心になり、昭和45(1970)年まで営業を続けていました。

〔注1〕広沢虎造(1899〜1964) 昭和初期に『清水次郎長伝』の「旅ゆけば~」で爆発的な人気を誇り、浪曲を広く一般大衆に知らした最大の功労者であった。昭和30(1955)年、宇和島の中央劇場での公演記録があるが、この頃の虎造はあまり声が出ないのでマイクのボリュームで調節したりして大変だったという。(池田義周氏の話)

〔注2〕井谷正吉(いたに まさよし 1896〜1976) は大正・昭和時代の農民運動家、政治家。 大正11(1922)年郷里の愛媛県北宇和郡鬼北町(旧日吉村)下鍵山(しもかぎやま)に「明星ケ丘我等の村」を建設。「明星ケ丘」は、井谷と交遊のあった女流歌人・与謝野晶子(よさの あきこ)の命名によるが、井谷の指導により愛媛県最初のメーデーが開かれたところ。小作争議、部落解放運動を指導し、戦後は社会党の結党に参加した。

 

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岩松河畔と緑座 昭和初期 写真提供:岩松商工会

次に紹介するのは、戦前・戦後を通して芝居や映画などの娯楽を町の人たちに提供した津島町岩松の岩松河畔にあった芝居小屋「緑座」です。大正8(1919)年、宇和島-岩松間のバス運行が開始され、それに合わせて岩松新橋が架橋、同年8月には岩松村から岩松町になりました。町並みの右側のひときわ目立つ大きな和風建築が芝居小屋「緑座」。昭和4(1929)年に完成して町のシンボルとなり、紅灯とともに岩松川の川面に映え旅情を誘ったと伝えられています。

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緑座の枡席と舞台 昭和17(1942)年頃 写真提供:上田千鶴氏

写真は戦時中の貴重な写真で、丸井座の写真同様、大きな日の丸を背景に舞台中央で軍人さんが話しており、戦意高揚のための演説会と思われます。左側の席の「国防婦人会」の白いかっぽう着姿も時代を反映しています。写真左下に枡(見物)席の一部が写っていますが、「当時の緑座は喜多郡内子町の内子座より設備が整い、枡席も広々していた」と、劇場跡の隣に住む上田千鶴さんから伺いました。跡地には、大畑旅館と西崎石油の駐車場が並んでいます。

昭和12(1937)年頃「すわらじ劇団」という一座の芝居がかかり、公演の宣伝のために岩松河原でチャンバラ(立ち回り)のアトラクションがあり、新国劇のようなリアルな殺陣の迫力が人気を呼んだエピソードがあります。剣戟や股旅物らしいので「素草鞋(すわらじ)劇団」かと思っていたら、マハトマ・ガンジーがインド独立運動を指導したときの「完全・自治独立」を意味する「スワラジ」が語源と聞いてビックリ。京都山科(やましな)の「一燈園(いっとうえん)」が母体ですので「すわらじ劇園(劇団ではない)」が名称で、現在まで80年続いている演劇団ということです。

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『てんやわんや』ロケ 昭和25(1950)年 写真撮影:故中尾正利氏

昭和25(1950)年5月末、松竹映画『てんやわんや』での撮影中のスナップです。相生楼(あいおいろう)の望月優子が「和尚さん、だいぶ捕れたかな」と岩松川でウナギ捕りをしている田鍋和尚・薄田研二に話しかけるシーンの背景に、偶然にも偉容を誇った緑座が写っていました。御荘平城(みしょう ひらじょう)の写真館主・故中尾正利さんが、ロケ隊を追って撮影された写真の1枚。中尾さんのおかげで、緑座の全景や東小西家(現大畑旅館)、岩松の美しい町並みなど風俗資料としても価値ある写真が残されたわけです。戦後初の南予ロケに町中「てんやわんや」だったとか。

戦後の映画ブームで「緑座」から岩松東映に変わり、岩松南部にはもうひとつ「松劇」という新しい映画館も開場(チケット売場が残っています)しましたが、昭和40(1965〜1974)年代にはいずれも姿を消したようです。昭和初期に建てられた緑座の名の由来は、岩松川の旅情ゆたかな松の緑に由来するのかもしれません。

 

吉田町、津島町の劇場は、取材でずっと後年になって知りましたが、私の中学生時代から慣れ親しみ何度か映画を観たのは、三間町宮野下駅の近くにあった「惠美須座」です。中央部が椅子席で、1、2階の左右に桟敷席がありましたが、東映、大映などの旧作が、旧市内の劇場より数週間か数ヶ月遅れて上映されており、宇和島から片道1時間以上の登り坂の険しい山道を、映画が見たい一心で自転車を必死で漕いで通ったものでした。

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惠美須座のガラスウィンドー   浅香布美代ポスター 昭和48(1973)年

昭和48(1973)年2月、閉館後同座のガラスウィンドーに貼ってあったポスター(左の写真)なので、最後の公演かとも思いましたが、9月28日「昼1時1回」の公演と書かれており、同年9月に私が市内の通称「六兵衛坂」で見かけた同じ内容のポスター(右の写真)が 9月25日宇和島市公会堂での公演を宣伝しているので、宇和島の後、三間町宮野下で公演があったのではと思われます。演物(だしもの)は芝居と舞踊ショーで、嵐市二郎と浅香布美代の合同公演となっていますが、『鞍馬天狗』の嵐寛寿郎、「女剣劇」の浅香光代に似せたようなまぎらわしい芸名がいかにも旅芸人らしく、ある種のいじらしさを感じます。

平成11(1999)年5月の恵美須座跡の全景(左の写真)です。2階席の一部やモギリ(入場券の半券をもぎ取る所)やテケツ(チケット売場)だけでなく、ステージや1階から2階桟敷へ上がる階段までもがそのまま残っています(右の写真)。上のモノクロ写真の頃は材木置場でしたが、この当時は1階椅子席だけを取り除いて駐車場になっていました。私どものタナベ昭和館に展示している雨土に打たれた形の映画ポスターも、この写真に見られる2階桟敷(さじき)席の前の方にどさっと無造作に置かれていたものでした。

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   惠美須座全景と2階桟敷席 平成11(1999)年

最近まで戦後にできた新しい劇場かと思っていましたが、調べてみると大正初期には開設された歴史ある劇場で、その前の時代には「清家座」といっていたらしい。しかし、大正12(1923)年に残念なことに火災により焼失していますので、現在の建物は大正時代のものではなく、昭和10(1935)年に再建されて同47(1972)年まで上映を続けていました。劇場名は近くの三嶋神社に末社恵美須神社がありますので、おそらくそこに由来するのでしょう。市内の融通座やサンシャインがあっという間にいとも簡単に取り壊されたのと違って、建物が現存しているということにとても感動しました。

そうした印象を持っていたのですが、平成26(2014)年9月4日久しぶりに訪れると、更地(さらち)になり廃材が積み上げられていました。美沼名画座がコスモスホール三間で映画を上映するより、惠美須座の保存や有効活用を考えることの方がずっと大切だと考えていましたので、きわめて残念です。私が13歳から50年つき合ったもっとも長い劇場であり、こうして最後を見届けることができたのも何かしらの縁を感じました。

館主のつぶやき 旅芸人のいる風景

 

旅芸人や旅芝居と聞いてふっと思い出すのは、中学時代の友人Hのことである。当時気がつくと、独特の雰囲気を持ったアウトローが私のそばにいつもいて、ポケットにはジャックナイフをしのばせ、うら若き女性の写真が入ったペンダントを片時も放さず大事に首にブラ下げていた。ペンダントの写真が母親だというので不審に思ったが、どうやら彼が生まれてまもなく亡くなった美しい花形女優の旅役者。父親は流れ者のヤクザだったらしい。

クロウト世界から生まれた彼は、芸人にはならなかったけれど、集団就職で関西に出て一流の寿司職人になり、風の吹くまま気の向くままフーテンの寅さんのごとく、宇和島へふらり帰っては出ていったりを繰り返した。30年前の雪の深い冬、小さなトラブルが原因なのか成川渓谷の山中で誰ひとり知られず彼は縊死した。故郷柴又ではやさしい妹や叔父夫婦がいつも寅さんを待っていたが、Hは真実天涯孤独であり、故郷宇和島は誰も彼を受け入れなかった。

あのナイフは、ほんとうは気が弱くやさしい、人に好かれたかった彼の愛情表現だったのに。美しい母親のもとに帰った彼は、誰も訪れることなく墓標もない鬼北町(北宇和郡)の奈良山霊園に静かに眠っている。

 

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三間町出身の俳優・泉好太郎

鬼北町のお隣三間町から、旅役者に憧れて大河内劇団に飛び込んだ「泉好太郎」のことを、同町の知り合いから聞いたことがあります。昭和50年代(1975年〜1984年)頃までは東映の映画(『地獄』『真田幸村の謀略』)やテレビ時代劇(『銭形平次』『大岡越前』など)でバイプレーヤーとして活躍したらしい。若い頃はハンサムボーイで容姿には相当自身を持っていたそうですが、現在の消息については不明。

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泉が出演していたかどうかはわかりませんが、中央町の中座〔注1〕で興行があった「大河内俊雄劇団」の昭和33(1958)年の新聞チラシと優待券です。外題は「荒川提のまま子殺し」という因果応報のおどろおどろしい芝居で、当時流行った演し物らしい。チケットの方には「剣聖 大河内俊雄」の『丹下左膳』とありますので、著名な剣戟大スター・大河内傳次郎をもじった芸名と劇団名であるのは一目瞭然です。

昭和41(1966)年から10年近く東京・大阪で暮らしていた私は、東京では北区中十条の「篠原演芸場」や足立区北千住の「寿劇場」、横浜の三吉橋たもとにある「三吉劇場」、川崎市川崎区の「大島劇場」などを見て回りました。「篠原演芸場」は梅沢富美男がまだ女形でブレイクする前に二枚目半の三下やくざを演じていた頃、お兄さんの武生さんがスターだった梅沢劇団のホームグラウンドでした。関西では通天閣下新世界の「浪速クラブ」、和歌山市の「ほてい座」と「戎座」、尼崎市の「寿座」、神戸市長田区の「新生楽園」などに観劇に通いました。

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東京・北区中十条 篠原演芸場 昭和51(1976)年

東京周辺の小屋で記憶に残っているのは、横浜市南区にある三吉劇場(三吉演劇場)。今は町おこしもあって近代的な劇場に生まれ変わりましたが、昭和40年代(1965年〜1974年)には1階が銭湯、2階が劇場で、中村川にかかる三吉橋のたもとにあり、川向こうは寄せ場〔注2〕という理想的なロケーションでした。ここには、股旅ものの狂言で、耐え忍ぶ中年の世話女房(もちろん男性が演じている)をやらせたら、天下一品の役者さんがいて感激したことを覚えています。歌舞伎と大衆演劇の違いは、大衆演劇の方がはるかに女形にしろ立役(たちやく)にしろ、年齢や性別を越えたとんでもなく美しい、いわば高畠華宵描く“両性具有の女神”に通じるすばらしい役者さんが多数いることです。

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横浜・三吉橋から三吉劇場 昭和51(1976)年1月       平成6(1994)年6月

ドサ回りといわれる旅芝居も、故市川森一が「下町の玉三郎」梅沢の女形の芸に心打たれ、テレビ『淋しいのはお前だけじゃない』(昭和57/1982年 TBS)で大抜擢して人気沸騰。梅沢に続き片桐光洋(元祖チビ玉)などの登場もあって、日陰の花であった大衆演劇もメジャーとなってかなり様相が変わってきました。最近では日本全国に大衆演劇の芝居小屋が復活してきて、大阪では新世界から西成(にしなり)にかけてこの種の小屋が5軒も集まっています。

しかしながら、大衆演劇のほんとうのすごさとは、どちらかといえば、恵まれない市井の庶民や孤独な老人たちを感動させることだと思います。役者さんと観客の距離の近さが一体感を盛り上げて、観客たちは夢を託して熱狂を生むのです。そうした観客たちの陶酔の世界と役者さんの魅力は、絶対メジャーの歌舞伎などでは味あえません。役者として舞台で見せるのではなく、タレント業に精を出す昨今の梅沢おじさんのような芸能人ではどうしようもありません。

歌舞伎劇場ならきれいな着物を着飾って行ったりしますが、買い物の帰りとか普段着で気軽に観劇に来るのがこの種の劇場の良さです。歌舞伎の全盛期というのもそうだったと思いますが、男は男、女は女の色気を見せることが芝居の基本中の基本。色気がない場合はいかにうまく芝居ができて、「名優」とか「人間国宝」といわれるような人であったとしても一片の魅力も感じないでしょう。

〔注1〕映画館「ロマン座」の前身であり、戦後の昭和28(1953)年から約7年の間大衆演劇や浪曲などの実演をしていた芝居小屋であった。

〔注2〕日雇い労働の求人業者と求職者が多数集まる場所。「ドヤ街」は日雇い労働者の多く住む町。

 

 

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