宇和島 芝居・活動小屋幻景 7

第7回 内港の丸の内劇場

現在の新橋商店街が内港で海に面して賑わっていた頃の話。昭和12(1937)年、内港のさらなる発展を願ってそのシンボルとなるような娯楽・観光スポットをつくろうと堀部本店の14代堀部徳之丞らの発起で、映画館「丸の内劇場」が開設されることになりました。昭和11(1936)年起工、翌12年に竣工しました。鍵屋工務所(建築士・故鍵山新吉)の詳細な設計図面が残されています。昭和60(1985)年に死去した鍵山さんは、どちらかというと神社仏閣などの設計が得意な職人肌の静かな人だったと聞きますが、設計図が残る恵美須町の松浦本店同様に擬洋風〔注1〕の見事な建築作品を発表しています。

「名称 活動常設館」と書かれた設計図は、「トレーシングペーパー」〔注2〕に鉛筆で各立面図正面、各立面図側面、断面図、1階平面図、2階平面図からなり計3枚あります。昭和12年9月、10月の表記があり、各立面図の姿図及び軸組には「トラス」といわれる三角形を基本単位として構成する構造形式が取られています。映画館は2階席のある構造で、1階前方の左右に下足置き場と事務所、入ってすぐ中央に警察官監視席〔注3〕、配電室、売店があります。後方にかなり広いステージがあり、ステージの左右にタイル張りのトイレが二ヶ所設けられています。

正面33333 側面3
各立面図・正面                 各立面図・側面

丸劇設計図155555 設計所・鍵屋工務店 二平面30000
断面図                     平面図・2階平面

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建設工事中

建築現場の全景とその中央部分の拡大写真ですが、これで見ても建物の偉容がよくわかります。戦前・戦後を通じて“冬ソナ”の原点「松竹メロドラマ」の封切館として、また東宝作品や洋画も上映され「丸劇(マルゲキ)」とよばれ市民に親しまれました。映画以外に芝居や歌謡の実演なども行なわれたようです。戦後、宇和島の名を一躍全国ブランドにした『大番(4部作)』は主にこの劇場で公開されています。

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宇和島名所絵葉書「丸の内劇場」 昭和12(1937)年 写真提供:生田多加子氏

杉山昭文堂発行「宇和島名所絵葉書」の1枚で、完成直後の丸の内劇場です。「宇和島の新名所 端麗豪華映画の殿堂 丸の内映画劇場」と記され、東宝映画封切を示す東宝マークが入っています。観覧席や階上休憩ホールも当時としては超モダンな造り。4階の上に丸窓をつけ東京有楽町の日劇をモデルにしてつくられたといわれ、当時の宇和島の繁栄ぶりが偲ばれます。一番上に映写室があり、上から下へ向かって映し出したのは、当時の宇和島地方では初めてだったといわれています。

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『戦捷第二条』のたれ幕 昭和13(1938)年

日中戦争が起こった翌年の昭和13(1938)年8月であり、「祈武運長久(ぶうんちょうきゅうをいのる)」「戦捷(せんしょう)第二条」といった当時の世相を反映したキャッチフレーズの垂れ幕が目に入ります。「林長二郎改メ 長谷川一夫」とあるのは、有名な「長谷川一夫顔切り事件」に由来します。昭和12(1937)年、“天下の二枚目”林長二郎が松竹から東宝へ移籍したのに端を発し、暴漢に襲われて左頬を貫通する深手を負い、師匠からも芸名を返上するよう命じられ、本名の長谷川一夫を名乗るようになりました。長谷川は28(1953)年に、宇和島の融通座へ美空ひばりとともに来演しました。

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旧内港と丸の内劇場 昭和16(1941)年 写真撮影:山崎昌徳氏

写真は昭和16(1941)年4月頃。当時の内港浜通り、現在の新橋商店街「ヒラカワ化粧品店」付近から撮影した同劇場です。背景に宇和島城天守閣と城山の樹木が見え、右端に京徳(キョートク)印の堀部本店の醤油蔵があります。戦前から昭和25(1950)年の内港埋め立てまで、このように市の中央部まで海が入り込んでいたことが確認できます。南予文化会館裏の市営駐車場の周辺一帯が劇場が立っていた位置になります。

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旧横新町から丸の内劇場 昭和16(1941)年 写真撮影:山崎昌徳氏

同年の初夏、夜のとばりが下りはじめた頃、旧横新町、現丸之内5丁目の「有明」付近から見た内港の丸の内劇場。左端の通りが現在の新橋商店街あたりです。機帆船やポンポン船が碇泊する港町の風情があふれ、劇場や町の照明が水面に美しく映え幻想的な内港風景になっています。

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『花は偽らず』公開 昭和16(1941)年 写真撮影:山崎昌徳氏

写真は、昭和16(1941)年4月に公開された豪華3本立て番組のようです。公開中の作品は、松竹メロドラマ『花は偽らず』(高峰三枝子主演)と日活時代劇『侠剣魔剣』(片岡千恵蔵主演)に加え、愛媛(伊予郡砥部町)出身の名優・井上正夫の主演した松竹の『十日間の人生』の立て看板が、中央入口にかかっています。

同20(1945)年7月13日未明、米軍のB29、123機が飛来して焼夷弾攻撃により袋町(中央町)、片側町であった内港浜通り(新橋)、恵美須町はほとんど全焼しましたが、その際内港のシンボルであったマルゲキが焼失したのは残念至極で惜しまれます。空襲時は大雨で被爆地区は城山周辺でしたが、運よく戦前の繁華街である追手通りから山の手方面は被災を免れましたので、追手のシンボル、芝居小屋「融通座」だけはかろうじて戦後も生き残ったわけです。

同年の太平洋戦争降伏後になると、日本がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下に置かれ、占領政策により、日本刀を振り回す剣劇(チャンバラ時代劇)は軍国主義的、敵討ちなどの賛美がアメリカ合衆国に対する敵対心を喚起するとして一時製作が制限されました。同様に、動物愛護的見地から残虐であるなどの理由で、宇和島地方の大衆娯楽のひとつ「闘牛」もこの時期禁止されています。

戦後しばらくの間融通座などに、バンツマ(阪東妻三郎)や月形龍之介、高田浩吉らの名だたる時代劇大スターが相次いで公演したり、中央町の中座、山際のつばめ座、和霊東町の和霊座など芝居小屋が生まれ、「どさ回り」といわれた地方巡業専門の大衆演劇や、浪曲、講談などの公演が映画の上映よりも多かったのも、食料事情など含め地方の方が生活条件が整っていたからとする見方もあります。昭和25(1950)年頃からGHQの規制は緩められ、昭和26(1951)年に時代劇を売り物にした東映株式会社が発足、同29(1954)年日活の映画製作再開などで日本映画業界は、活気を取り戻しました。

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2代目丸の内劇場 昭和25(1950)年3月 写真提供:三好明子氏

昭和25(1950)年という年は、倒壊した瓦礫(がれき)などで埋め立てられた内港埋立地(現新橋商店街)に3月20日、昭和天皇をお迎えしたことや、5月末には戦後初の南予ロケーション映画『てんやわんや』で松竹のロケ隊がやってくるなど、戦後の明るい希望に灯がともった年でした。写真は戦後の昭和23(1943)年に新築された丸劇で、2階正面中央に、天皇陛下ご巡幸を喜んでお迎えする「奉迎」という文字が、日の丸の左右に書かれています。

闇市風の内港マーケット(現しんばしデパート)、袋町マーケット(現あづま食堂跡)、本町マーケット(現袋町恵比須神社付近)といった、一棟に数軒並んだよしず張りの簡易店舗もしだいに落ち着きを見せ始め、7月の夏まつり(和霊大祭) は、内港埋立地にサーカスや見世物小屋、屋台店が多数立ち並びおおいに賑わいました。続いて、11月3日の商工祭は市制30周年とも重なり、商店街もスズラン灯(外灯)が完成して市民の目を奪い、装飾された商店街も体裁を整え、この頃から急速に町は発展していきました。劇場や映画館、花街や料理屋など大繁盛だったことが資料にも記されています。

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戦後2回目の新装後の丸の内劇場 昭和41(1966)年7月頃

昭和30年代(1955年〜1964年)に1度改装され、「丸劇」の名前に合わせて建物正面が三角屋根から三つの円形を持ったスタイルになりましたが、建物の側面から見ると、戦前の豪華さとは比べもののならないバラック建てでした。昭和41(1966)年秋に建物は取り壊され、翌42(1967)年4月27日跡地に丸之内百貨店(のちフジ丸之内店)がオープンして、屋上4階に「松竹映画」を上映する小規模な映画館ができました。オープン・セレモニーと舞台挨拶には倍賞千恵子が来演して話題をよびました。43(1968)年1月から東宝直営館になり、館名も「宇和島東宝」と改称しました。47(1972)年以降は「日活ロマンポルノ」〔注4〕なども公開されましたが、55(1980)年に閉館して長い劇場史の幕を閉じました。

 

〔注1〕明治時代に西洋の技術が入り、大工や棟梁(とうりょう)たちが見よう見まねで建てていった和洋折衷の洋風建築を称してそういう。

〔注2〕透かして複写(トレース)するための薄い半透明の紙。

〔注3〕戦前は、人の集まる場所には映画館に限らず、警官が検閲する席があって、しばしばここで臨検と称して、気に入らない場面や発言があると即刻中止、全員解散ということになった。

〔注4〕昭和30年代(1955年〜1964年)、裕次郎らのアクションや青春映画でヒットを飛ばした日活も40年代(1965年〜1974年)に入ると客足が衰え、46(1971)年から「成人映画」を主体とした「日活ロマンポルノ」に路線変更した。

館主のつぶやき マライのハリマオと戦意高揚映画

『マライの虎』と『サヨンの鐘』はどちらも実話をもとにした戦意高揚映画で全国的に大ヒット、昭和18(1943)年8月19日にマルゲキで2本立て公開されています。この年5月にはアッツ島で全員玉砕など、日本の敗色が徐々に濃くなりはじめた頃です。

戦前の二枚目俳優中田弘二〔注1〕主演の『マライのハリマオ』は、太平洋戦争の開戦直後、イギリス軍の活動を背後から破壊かく乱し日本軍の特務機関として協力した現地日本人で〈ハリマオ〉とよばれた谷豊の活躍を描き、主題歌とともに大当たりしました。戦後は無国籍アクション『快傑ハリマオ』としてテレビシリーズで復活。映画のモデルの谷豊は、福岡市南区五十川(ごじっかわ)出身で昭和17(1942)年2月のシンガポールが陥落した1ヶ月後、同市内の陸軍病院で32歳の若さで生涯を閉じています。彼が実際日本軍にどのくらい協力し、また活躍したのかは諸説入り乱れハッキリしていません。

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昭和18(1943)年8月19日公開『マライの虎』古賀聖人監督     昭和16(1941)年の新聞記事

平成12(2000)年の2月、私は旧日本人町があったマレーシア東海岸クアラトレンガヌや、彼の眠るとされるシンガポールのイスラム墓地を訪れ、足跡めぐりをしたことがあります。ハリマオの故郷を数日歩いて感じたのは、王宮を中心にした町並みやおだやかでやさしい町の人たちは、半世紀を経てもまったく変わっていません。あくまで彼は敬虔(けいけん)なマレー人回教徒として仲間たちとともに自由に生きることを願ったのであり、当時の「大和魂」的な精神を持った日本人とは異なるのでは、ということでした。大平洋戦争という激動の時代に翻弄された異郷にいたたくさんの日本人の一人だったのかもしれません。〔注2〕

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昭和18(1943)年8月19日公開『サヨンの鐘』清水宏監督作品

『サヨンの鐘』は、昭和13(1938)年、日本統治下の台湾・台北州リヨヘン社に駐在していた日本人巡査が出征することとなり、慕われていた巡査のため、下山する際の荷物運びを17歳の少女サヨン・ハヨンほか何人か村人が手伝いました。一行は悪天候のなか出発したが、途中の川に掛かった丸木橋を渡る際、サヨンは足を滑らせて増水した川に落ち落命する。この話は、台湾先住民宣撫のための格好の愛国美談となって広まり、サヨンを顕彰する鐘と碑が遭難現場付近に建てられました。同16(1941)年渡辺はま子により歌われ、内地外地問わずヒットしました。

サヨンに扮した山口淑子は、昨年94歳で亡くなったが、満映(満州映画協会)のスター中国人・李香蘭として活躍し、日本の敗戦後、中国から売国奴(漢奸 かんかん)としてあわや銃殺刑の危機にあいました。北京の両親から日本の戸籍謄本が届けられ、日本人であるということが証明され、国外追放となって無事帰国することができたのでした。〔注3〕

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次週8月26日公開『マンガ映画決戦大会』

『サヨンの鐘』のチラシの裏面に、次週予告として8月26日封切『マンガ映画決戦大会』『大陸新戦場』と勇ましいタイトルが並んでいます。「浙(せっ)かん作戦の大記録映画」とあるのは、昭和17(1942)年4月、米軍による日本本土への初空襲が実施され、東京・大阪など大都市への空襲に強いショツクをうけた日本軍は、米軍爆撃機の補給基地である浙江省(せっこうしょう)・江西省(こうせいしょう)の米国民党軍飛行場を潰滅する作戦名ですが、その際、細菌を使ったことが後々日本の汚点となります。その作品が「文部省推薦」であり、「これは素晴らしい銃後の笑慰団(しょういだん)来る」と焼夷弾を引っかけたコピーを使うなど、今から見ればブラック・ユーモアにもならない。

戦災都市として3分の2の土地を焼失して、多くの人命や重要な文化財や劇場のほとんどを失った宇和島市は、世界絶対平和をもっともっとアピールしなければならないのでは。

 

〔注1〕中田弘二(1909〜没年不詳)の次男・中田博久(1943〜)は、デビュー作『南海の狼火』(昭和35年 日活)では浅丘ルリ子の兄を、『新網走番外地・流人岬の血斗』(昭和44年 東映)では健サンに叩き斬られる暴力団幹部を演じていますが、いずれも宇和島ロケ作品。父親とはひと味違った特撮ヒーロー〈キャプテンウルトラ〉役で人気者に。

〔注2〕もう一本、平成元(1989)年に伊沢満脚本、和田勉監督で『ハリマオ』という松竹作品がありました。ハリマオ(谷豊)を熱演した陣内孝則は、イスラム帽にサングラス、2丁拳銃でギラギラしてそれなりにカッコいいハマリ役。実話に近いという触れ込みでしたが、和田さんなりの作り話だと感じました。

〔注3〕李香蘭を実の妹として可愛がったとされる「東洋のマタ・ハリ」川島芳子(愛新覚羅顕玕 あいしんかくら けんし)の場合、日本での助命嘆願が間に合わず漢奸として北京で銃殺刑に処せられた。作家・村松松風(しょうふう・村松友視ともみの祖父)が清朝(しんちょう)王女である彼女を取材し発表した小説『男装の麗人』が、「満州国の女官長」のように誇張して描いた創作部分が多く、処刑の一要因となったともいわれている。

 

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