宇和島 芝居・活動小屋幻景 8[最終回]

第8回 須賀川畔のキリン館

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大正12(1925)年 開館時(下の2枚とも)

キリン館は大正12(1923)年3月、旧須賀川大橋のたもとに活動常設館(映画専門の劇場)として開設され、帝国キネマ〔注1〕と松竹キネマ系映画が上映されました。入場口上の横断幕に「開店」の文字が読めますので、のぼり旗に交じり大勢の人たちが並んでおり開館当日の記念撮影かもしれません。1階前の「ヨツメ石鹸」の広告看板の左手に、前掛をした女性3人はお茶子〔注2〕さんでしょうか。ちなみに、この半年後の9月1日に関東大震災が起こり、10万人以上の人が死亡あるいは行方不明になったといわれています。

キリン館大正121212

こけら落としは『白蓮紅蓮』〔注3〕という女性映画でした。「キリン館」の名称で有名なのは、東京・浅草六区の興行街に大正2(1913)年に開業した映画館で、帝国キネマの作品が上映されていますので、もしかすると宇和島のキリン館も同系列館的な劇場だったのかもしれません。階下を椅子席ですが、2階は桟敷で、スクリーンを半円形に囲み段差をつけていましたので、どこからでも観賞できるように設計されていたようです。昼間でも活動(映画)が見られるということで話題になりましたが、窓に全部黒幕を掛けて館内を夜にしたと語り継がれています。サイレント(無声)映画の時代であり、花形弁士今井龍光の存在が大きく「鶴島館」の弁士坂田楠香と人気を二分したそうです。キリン館エプロン少女1212キリン館前の旧須賀川新大橋の橋桁に、姉妹だろうか三人の少女が佇んでいます。真ん中の少女は白いエプロン姿ですが、当時は5、6歳までがエプロンに蝶々結び、もっと小さい子は丸い白エプロンでした。昭和7(1932)年10月に須賀川が付け替えられますが、それ以前の状態では川は現在の国道56号線あたりを流れていたようです。

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昭和5(1930)年頃

昭和初期、鎌江城跡(和霊神社)側から撮影した写真で、中央付近の三角形の建物はキリン館です。その右側の朝日町地域に人家はまだ見られず、須賀川に沿った右上の煙突と工場群は「日本酒精(焼酎会社)」でしょう。中央の大橋の上方が船大工町、現在の宇和島信用金庫恵美須町支店の周辺です。写真手前に鶴島町の北陽花街が隣接しています。神社、花街、劇場と昔の「悪場所」の条件を満たしている好例です。この写真ではちょっとわかりずらいですが、左方に北陽に渡る橋があって「芸者橋」とよばれていました。

 宇和島市出身の作家・木下博民氏によると、昭和7(1932)年の小学4年生頃、キリン館と路地ひとつ隔てた家に仮寓しており、楽士の演奏する音楽の騒音がけたたましく勉強どころではなくて大変だったそうです。キリン館は、1階は固い椅子の5人掛け。2階は下の倍近い料金で、下足番から木札を受け取ると、白いエプロン姿のお茶子さんが、座布団と冬なら手焙り(小型の火鉢)を下げて、枡席〔注4〕の桟敷に案内してくれたとのこと。


昭和20(1945)年7月28日深夜から29日未明にかけての朝日町一帯の焼夷弾攻撃によりキリン館は焼失しましたが、その日は夜9時頃まで映画が上映されていたようです。〔注5〕7月13日の「丸の内劇場」に続いて、戦前の貴重な文化財的建築がまたひとつ消えていったのです。このあと、広島に続き長崎に原子爆弾が投下された日の前日8月8日、大規模な空襲としては最後の、坂下津の宇和島海軍航空隊に模擬原爆〔注6〕が落とされ、まもなく敗戦となったのでした。

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戦後のキリン館 昭和45年頃

2代目キリン館が再建されたのは昭和25(1950)年で、大映映画を中心に昭和45(1970)年まで営業を続けました。戦後の劇場は、つまり我々団塊世代が通っていた時のキリン館は、丸の内劇場同様に相当安っぽいつくりでした。近くには飲食街や花街もあって妖しげな雰囲気が漂う、我々にとっては理想的な劇場でした。劇場左側の並びに、おでんやラーメンの屋台が2、3軒店を出しており、その裏側にあたる劇場非常口がときには開いていて、友人などはそこから出入りしてタダ見を決行していたようです。

その後建物は解体され、跡地は「キリン館パーク」という駐車場になり、昭和50(1975)年頃には「牛丼の吉野家宇和島店」も一画にできていましたが早々閉店し、現在は「清岡眼科」になっています。

 

〔注1〕帝国キネマ演藝株式会社は、大正9(1920)年から昭和6(1931)年まで大阪に存在した映画製作会社。略称帝キネ。

〔注2〕関西の劇場、寄席などで働く女性。主としてお客の送迎や飲食物などの接待等をつとめる。

〔注3〕菊池幽芳のベストセラー小説の映画化。同年製作の松竹版と帝キネ版が存在する無声映画。松竹版だったとすると、シナリオライター時代の伊藤大輔(宇和島出身)の脚本によるもの(監督は賀古残夢)。

〔注4〕土間や板敷きの間を数人が座れるように四角く仕切った日本の伝統的な観客席。

〔注5〕キリン館最後の上映は大映の『紅顔鼓笛隊』。木村恵吾監督、市川右太衛門主演の和製「軍隊マーチ」の誕生秘話。最前線の敗色濃厚な傷つき果てた部隊を鼓舞する太鼓の音が響いてくる、といった戦時を反映した作品。

〔注6〕長崎型の原爆と同寸法、同重量の大型火薬爆弾。プルトニウム原爆「ファットマン」といい、広島に落下したのはウラン原爆「リトルボーイ」で長崎の方が寸法は大きい。

参考資料:
「回想映画館」木下博民著/第三書館
「久保凸凹丸(あいまる)日誌」昭和9年〜22年

館主のつぶやき 闇の芸能〜見世物小屋とサーカス

我々が小中学生頃の昭和30年代から40年代にかけては、夏まつりのメインイベント「走り込み」がある和霊神社前の広場では、飲食屋台や露店がつらなり、必ず矢野やキグレサーカス、狼少女や河童などの見世物小屋が毎年のように掛けられ、近郷近在の人たちも集まり、大変な活況を呈していました。そして、戦前から営々と続いてきた放浪芸や大衆芸能というものも、いまや消えゆこうとしています。まして、宇和島のような地方都市ではほとんど見る機会もなくなっています。

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和霊神社前広場 サーカスや見世物風の「珍獣奇獣ショー」昭和37(1962)年頃

当時の「河童・カッパ」という見世物をにわかに思い出すと、小さな池(水溜まり?)をつくって、カッパの頭のお皿の部分がプクリプクリと水面から出てきます。おそらく、わからないように物かげからポンプ状のものを足で踏むと、カッパの頭が浮き上がる仕組みだったようです。

狼少女や海老娘というのも多々ありました。狼少女の方は小屋の表に「狼少女発見!」という見出しのいかがわしい新聞紙など貼ってありましたが、中に入ると中年のおばさん。なるほど発見されたとき少女でも、現在は中年女性というわけです。何かニワトリのようなものをむしゃむしゃかぶりついていたように記憶しています。海老娘さんも年配の女性でしたが、身体障害者で足がないのか、あるいは足を隠しているのかわかりませんが、胴体におもちゃのような2本の足を取り付け、海老のように折り曲げていました。

『エレファントマン(象人間)』『野性の少年(狼少年)』といった実話を映画化した名作がありましたが、あれと似たようなユニークな口上も記憶に残っています。戦後「新東宝」というB級映画会社があり、「お化け映画」や「海女シリーズ」などエログロ路線で見世物色の強い作品を、宇和島では大映封切の「キリン館」で添え物作品として上映されていたのを覚えていますが、見世物小屋のかかる和霊公園そばの映画館だったというのも興味をそそられます。

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浅草 稲村劇場 昭和49(1974)年5月2日

写真は、後年全国でここだけといわれていた東京・浅草の見せ物小屋常設館「稲村劇場」を訪れたときのもの。中央部にどぎつい絵看板と、小窓があって後ろ向きに見世物芸人たちが見える仕掛け。右手の台で口上を述べる女性が述べています。暗い写真でわかりにくいですが、「お代は見てのお帰り」で右側から入って左側から出てくるように、多分なっていたように思います。現在はこの劇場もなくなり、日本で唯一の見世物小屋となった大寅興行社もいまや風前の灯らしい。日常性を離れて「わけのわからない、不思議な、妖しい世界」に浸ることはときに必要なことだと思います。

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アイアンホール 昭和50(1975)年3月1日

サーカスでは一般的に、綱渡りや空中ブランコ、足の上で樽などを回す足芸などが最もポピュラーです。歌舞伎のサーカス化である「蔦の葉」における木下愛子さんの足芸は、写真の昭和50年当時でもかなりご高齢でしたが天才的なひらめきがあって、芸の凄まじさやきびしさを感じさせる本物の芸術でした。団員の人たちを伺っていると、芸能という裏街道を歩む者の一種の不気味さ、得体の知れなさはあるのですが、と同時に海外のサーカスを意識してかどうか、ショーがスマートすぎてもっと泥臭さや猥雑さをかもし出す雰囲気が欲しいようにも思えました。

その他では、矢野オートバイサーカスを印象深く覚えています。大きな鉄骨を組み合わせた鉄球の中で、縦横斜め縦横無尽に爆音を上げてオートバイが疾走する。最初は1台のオートバイで、途中からはもう1台が入り2台で走る。狭い鉄球の中で2台のオートバイがすれすれに行き違うさまは迫力満点で、うろ覚えですが、たぶんその2台は男女ペアのようでした。写真は、宝塚ファミリーランドで撮影した、木下サーカス公演のオートバイ芸に使うアイアンホールと呼ばれる鉄球です。

昭和30年代頃までは、全国の祭礼や縁日などに香具師組合などで取り決めて、見世物やサーカスなどの興行が行なわれていたものらしい。こうした芸能が廃れたのは、身体障害者福祉法や未成年者保護法、道路交通法等の規制などさまざまな理由が考えられます。

「旅芝居」も含めていえることですが、極論すればかつての河原乞食のように、これ以上は落ち得ない闇の底を生き抜いてきた底辺の芸能というものがあり、そうした芸が時代を照射して光り輝いたのであり、現代のようにサラリーマンと変わらなくなったテレビを主体としたタレント・歌手たちには本物は生まれないでしょう。「電気紙芝居」と称されたテレビの現状は何もかも薄っぺらで、人間を掘り下げない感動のないドラマばかり。

今のテレビ番組では、カルチャーを持たず本物志向でない“ロリータ”や“モノセックス”の芸人がもてはやされています。たとえば、大林宣彦監督最初の〈尾道3部作〉は、少年少女期から大人に向かう中間の時期–––子どもでも大人でもない中性期–––の小林聡美、原田知世、冨田靖子ら最も光り輝く一瞬を捉えた映像は秀逸でしたし、ひところの丸山(美輪)明宏やピーター(池畑慎之介)は、外見相応に感性が研ぎすまされ、独特の知性と美を持っていたように思います。

ドラマ以外ではグルメに旅番組ですが、このふたつはきわめて個人的思考領域に属するものであり、何の参考にもならないと考えます。最近は海外の映像もよく流されるようになり、世界中の町を知っているように勘違いしがちですが、実際に自分でその国や街を歩くのとは全く違いますし、旅とは異次元を彷徨することであって絶えず危険を伴なうものです。世界中にマクドナルドやケンタッキー・フライドチキンのようなファーストフードとセブン・イレブンやファミリーマートのようなコンビニがあるように、日本全国どこに行っても、ゆるキャラにご当地アイドルやB級グルメ、道の駅や海の駅といった画一的イメージでは、街の個性も、旅のオリジナリティーも失われてしまうことになります。

私にとっては、かつてあらゆる情報や文化の発信地は映画館でしたが、映画館からテレビへと移り変わり、さらに昨今のITは凄まじい勢いで進化しており私の世代はなかなかついていけません。「ネットの住人」という言葉がありますが、ネット世界はウソ情報やバーチャルに満ちあふれていて、自分の目で見る、体験する、その上で判断する姿勢が大切なのではないでしょうか。

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