移り変わる町並み 宇和島駅と駅前通界隈2

8 町立宇和島商業学校と尋常高等小学校【昭和2(1927)年頃】

尋常そうと 2-8天満山から眺望した市街西北部。手前にある広い校庭のある校舎は町立宇和島商業学校、左が宇和島尋常高等小学校。宇和島商業学校は通称「宇商」といい、大正11(1922)年市立校になり、翌12(1923)年修業年限3年制から、宇中(県立宇和島中学)と同じ5年制となった。14(1125)年に中町(なかのまち 広小路付近)から天神町に移転した。当時の4代目校長は、商業教育に情熱を注いだ丸島清であった。

9 宇商(市立宇和島商業学校)野球部【天神町 昭和5(1930)年頃】

宇和島商業野球部75.-6 写真提供:西村泰治氏

町立宇和島商業学校は明治35(1902)年4月、裏町(現中央町)の仮校舎で男子校として開校後、同年9月丸之内、さらに大正6(1917)年、中町(なかのちょう=広小路付近)へ移転、その後本館が新築落成したため、和霊町(現在の地方局付近)に移った。宇商野球部は、宇中(宇和島中学)と毎年春秋熱戦を展開して、県大会、四国大会と駒を進めるが、甲子園は遠かった。戦後の昭和24(1949)年宇中と統合、宇和島東高等学校になり、昭和63(1988)年センバツ初優勝となって野球部活動が開花した。

10 和霊町巡査派出所【和霊中町 昭和15(1940)年頃】%e5%92%8c%e9%9c%8a%e7%94%ba%e5%b7%a1%e6%9f%bb%e6%b4%be%e5%87%ba%e6%89%804和霊町の巡査派出所前で、制帽に黒い外套のおまわりさんがポーズを取っている。民主主義の世になって「おまわりさん」と親しみを込めてよばれるようになったが、戦前までは「オイ!」「コラ!」に代表される怖いイメージの代表が警察官だった。よく見ると、モダンなデザインの派出所で、正面扉上には正月の「しめ飾り」がかけられ、路面には雪がチラホラ積っている。平成6(1994)年に「交番」と名称変更したが、それまでは巡査派出所といっていた。

11 焼け跡の残る宇和島駅周辺【昭和21(1946)年頃】

焼け跡4 写真撮影:木村 寿氏

敗戦直前の昭和20(1940)年7月、米軍の焼夷弾攻撃で宇和島駅は壊滅。簡単なテント張り駅舎を跡地につくり、翌年21(1946)年3月に戦災を逃れた建物を利用してできた簡易バラックの仮駅舎(詳細は次のNo.12)。乗客が長蛇の列をなしていた駅の周辺は、壕(ごう)の中で焼け死んだ人、家の焼け跡に焼夷弾の異様なにおいが加わり、何ともいいようがなかったという。市街地の大半が焼失し、唯一残ったうっそうと茂った城山が目に焼き付いたという証言も。

12 バラック建ての4代目宇和島駅【錦町 昭和22(1947)年頃】

宇和島駅仮駅舎3 写真提供:河野藤夫氏

敗戦直前の昭和20(1945)年7月28日深夜、アメリカの焼夷弾攻撃で焼き払われた3代目宇和島駅は、駅舎の復旧が長い間できず、特に、雨の日など濡れながら行列をする乗客は難儀を極めた。そこで、市が管理していた予科練跡の建物を移築、仮駅舎として使ったのが、この4代目宇和島駅。昭和26(1951)年5月27日、宇和島駅が新装開業する前日まで使われた。駅舎を前にした記念写真で、優勝旗や優勝カップらしきものも写っている。

13 厚生車大活躍 !【昭和24(1949)年頃】

輪タク(厚生車)2県下でいち早く登場したといわれる宇和島の幌付き輪タク(厚生車)は、昭和15(1940)年秋頃から営業していたようだ。宇和島駅の他、外港(九州航路)、内港(近海航路)、などにそのたまり場があった。昭和16(1941)年、米国の対日石油輸出禁止により、人力車の改良型である輪タクが一躍脚光を浴びることに。空襲により市街地の大半を失った敗戦後の宇和島の町を、警笛音を鳴らしながらエネルギッシュに疾走した。

14 紙芝居のおじさんは…【伊吹町 昭和24(1949)年頃】

%e7%b4%99%e8%8a%9d%e5%b1%854和霊小学校プールのそばの空き地に、鐘を鳴らしながらやってきていた紙芝居のおじさん。少年少女たちの顔や表情、服装には、あの時代が鮮明に現れている。昭和初期から戦後まで、子どもたちの大きな楽しみのひとつであった紙芝居は、テレビの登場とともに次第に廃れていった。このプールは、昭和15(1945)年9月に県内の小学校では初めて建設されたもので、戦時下の資材不足により竹を利用した珍しいたプールであった。

15 戦後の宇和島駅前と国鉄バス【錦町 昭和25(1950)年頃】国鉄バス宇和島駅前 2-8国鉄(現JR)宇和島駅前の畑枝川の手前に、ツバメマークの日吉村(現北宇和郡鬼北町)行き国鉄バスが止まっている。川を挟んで、右側に「東洋建物無盡(むじん)宇和島支店」の事務所。左側の建物は昔も今も手荷物預かり所になっている。この界隈に詳しい人に聞くと、当時は改札口の裏側(現鶴島町・和霊元町付近)は2m幅の川と、それに沿った細長い道があるだけの寂しいところ。裏側から列車に乗ったり降りたりできたので、無賃乗車する人もいたらしい。

 

 

 

 

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