移り変わる町並み 船大工町〜須賀通界隈1

1 城山から住吉山方面【明治中期】天満山から眺めた明治時代半ばの宇和島市街。左側の城山の後方には海が迫り、九島山が望める。城山の麓(ふもと)には三の丸御殿が見え、内港や辰野川の流れも推測できる。町並みは左から右に、袋町(現中央町)、竪新町(現新町)、塩屋町(現恵美須町)、船大工町(現恵美須町)へと続いている。中央の小高い住吉山から須賀通(すかどおり)沿いの下側は泉屋新田といい、朝日町や弁天町方面はまだ未開の地であった。右側の稲田は、大正に入り造成された鶴島町一帯である。

2 日露戦争の凱旋門と船大工町【恵美須町 明治38(1905)年頃】

%e8%88%b9%e5%a4%a7%e5%b7%a5%e7%94%ba%e8%88%b9%e5%85%b7%e3%83%9a%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%88%e7%a0%b4%e6%90%8d2日露戦争の終わった明治38(1905)年、 外港(樺崎 かばさき)から朝日町を経て帰還した出征兵士たちを歓迎する凱旋門※が船大工町※に仮設され、祝賀のちょうちん行列が行なわれた。左右の門柱に宇和島町と書かれているのは、まだ北宇和郡宇和島町の頃で、市制施行は大正10(1921)年8月であった。右手の「船具ペイント類板ガラス」の看板は、古くは造船業の玉置竹二郎本店。左は伊豫醸造の前身、丸三醤油合資会社で、通称「酢屋(すや)」とよばれた。

※凱旋門 パリのエトワール凱旋門が有名だが、明治の日清・日露戦争では日本が終始優位に進んで、勝った勝ったと兵士が凱旋して、それを迎える凱旋門が日本各地に作られていった。

※船大工町 かつては千石浜と称した。元禄16(1703)年7月の城下町絵図では、西方は海、北は旧須賀川、東は御旗町(御足軽町)に接し、東北部には水田が広がる片側町であった。海岸に造船所があり、船大工が居住したので船大工町という。

3 日本酒精(株)【栄町港 明治42 (1909) 年頃】

宇和海沿岸でできる甘藷 (かんしょ・サツマイモ) を原料に焼酎を醸造しようと、明治42(1907)年、町会議員福井春水(本町=現中央町)ら宇和島の有志数名により栄町港に日本酒精 (株)が発足。大正3(1914)年、神戸の鈴木商店に買収され日本酒類と改称した※。同7(1918)年8月、米価格急騰にともなう富山県で勃発した民衆の暴動事件「米騒動」が宇和島へも波及。その余波で焼き打ちにあい全焼した。一般には焼酎会社といわれていた。

※これをきっかけに大成功したのが、当時同社で醸造技師兼工場長をしていた大宮庫吉(おおみや くらきち  1886年〜1972年 宇和島市新町出身)。京都の四方酒造(株)に好待遇で迎えられ、新式焼酎(宝焼酎)を製造、販売。同社が寳酒造(株)に社名変更後の昭和20(1945)年、社長に就任。「日本一の酒造メーカーをつくった男」と称された宝酒造中興の祖。

4 須賀大橋【御幸町 明治43 (1910) 年】明治43(1910)年の8月、旧須賀川下流に須賀大橋が架かった。右岸には日の丸が揚がり、派手な装飾で飾り立てられているので、開通式と思われる。橋の左下の岸辺には日本髪に着物姿の女性や、川の中にも開通を祝う大勢の人たちで賑わっている。左岸へ渡ると須賀通、灘(住吉町)を経由し樺崎に到着する。朝日町本通りが造成された後の大正12(1923)年には、須賀通側の橋畔に映画館が開設された。右岸の数10軒の家並みは船大工町(現恵美須町)である。

5 宇和水電(株)本社【鶴島町 大正9(1920)年頃】

地元発起人により、宇和島電燈株式会社が計画されたのは明治39(1906)年。やがて、北宇和他4郡に及ぶ宇和水電の設立計画が熟して、同43(1910)年6月に宇和水電株式会社が創立、宇和島に電灯がともるようになった。写真は、大正9(1920)年頃鶴島町(西通り)に移転した頃の宇和水電の本社で、創立当時は本町にあった。現在の四国電力(株)宇和島支店の前身で、社屋もほぼ現在地付近であろう。手前の橋は畑枝川にかかる「西橋」、この通りを一筋左へ行くと船大工町へ通じる。

6 丸今綿布(株)宇和島工場【大正10(1921)年頃】(現城東中学校付近)大正6(1917)年5月、丸今綿布(株)の宇和島支店として、綿織物製造工場が和霊町に完成した。タオルで名高い今治に本社を持つ工場で、現在の城北中学校付近にあった。明治38(1905)年、北宇和郡綿織物組合が結成され,大正2(1913)年初めて動力機械が設置されてから、宇和島の織物製造は飛躍的に発展。大正期には、地場産業として次々製糸・織物工場が設立されて雇用の創出には貢献したものの、「女工哀史」のような悲話も語り継がれている。

7 完成した頃のキリン館【御幸町 大正12(1923)年頃】

%e3%82%ad%e3%83%aa%e3%83%b3%e9%a4%a8%e4%bf%ae%e6%ad%a345 写真提供:山崎 功氏

大正12(1923)年3月、旧須賀川新大橋のたもとに映画館として開設され、主に松竹や帝国キネマの映画がかけられた。歌舞伎小屋のような枡席もあり、開館当初は無声映画時代で、人気活動弁士の今井龍光が名調子を響かせ、専属楽団の望月昌(さかえ)※がバイオリンを奏でていた。昭和20(1945)年の空襲により焼失したが、戦後再建され45(1970)年7月まで営業した。立地はほぼ変わらないが、我々戦後生まれが知っているキリン館は、粗末なバラック建築であった。

※望月昌(さかえ) 本町追手の望月正弘さん(80歳 オート城東)の祖父。明治中期生まれで、無声映画時代に劇場専属の奏者として名声を博した。戦後は堀端町にあった中村軽音楽でバイオリンを指導していたという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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