移り変わる町並み 船大工町〜須賀通界隈2

8 鶴島町の菊池呉服店宇和島支店【鶴島町 大正時代】

鶴島町東通りにあった菊池呉服店宇和島支店。明治建築の板戸のある堂々たる店構えであった。現在の場所でいうと、鶴島町の藤田整形外科付近と思われる。右方の人力車には、車夫が座って主人の出発を待っている。店主の菊池傳次郎は八幡浜市出身で、戦時経済下では、宇和島生活必需品商業組合理事長や県商工経済会副会長など、八面六臂の活躍をした人物。同店は旧須賀川を隔てて北陽花街に隣接しており、大勢の芸妓を主な顧客とした呉服商だったかもしれない。

9 日本酒類醸造(株)【栄町港 大正12 (1923) 年】資本金500万円の日本酒類醸造株式会社は、旧須賀川の下流に宇和島工場があった。赤レンガ煙突の下に、20棟工場が並んでいる。今とはかなり様相が異なるが、「JAえひめ南本所」辺りから裏の駐車場にかけてが現在地で、近くには菊池酒造の清酒醸造場もあった。日露戦争の軍需景気の後、苦肉の作でアルコールを水に薄めたショウチュウ「日の本焼酎」を開発、大当たりした。この新式焼酎(甲類焼酎)の発売は日本初といわれている。

10 伊豫醸造株式会社【恵美須町 大正時代】

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麦味噌・醤油・酒販売の伊豫醸造株式会社は、大正4(1915)年5月15日創業の超老舗。現在のフジ恵美須町店付近にあった店舗だが、左側にうず高く積み上げられた樽には「萬年味噌」の商標が見える。四国・九州一円から遠くは韓国・台湾方面へも運ばれ販売された。フジから少し先の角店で、現在も元気いっぱい営業中! 無添加の麦麹100%の麦味噌 「萬年味噌」は伝統の製法でつくられており、「さつま」※にするのが最高。

※伊予さつま 魚と味噌を使った宇和島地方の郷土料理。観光客に「鯛めし」とともに人気はあるが、もともとは家庭料理。今時の主婦はまずつくらないが、家庭の味が一番。宇宙研究所の清家先生なじみの追手の料理店「丸水(がんすい)」では、少し麦を混ぜた白米にさつま汁をかける。「丸水」「宇宙研」といった宇和島名物も今はない。

11 北陽花街【御幸町 大正時代】宇和島を代表する花街といえば、和霊神社に隣接した北陽花街で通称「北新地」。明治後期から大正の観光絵葉書には必ず、和霊神社や須賀川をバックにした北陽の芸妓さんが登場している。大正3 (1914)年頃には、元結掛(もっといぎ)にも芸妓置屋が10数軒あり、こちらは南新地(南地花街)といった。最近まで営業していた元料亭・旅館の月ヶ瀬付近から河岸にかけては、往時の雰囲気はかすかに漂っている。

12 三階建ての(株)藤江検番【御幸町 大正9(1920)年頃】

大正8(1919)年11月、北陽花街(北新地)の検番※として、末光杢太郎を取締役に資本金10万円で発足した。検番とは、芸者や芸妓が登録して、置屋への取り次ぎや玉代(ぎょくだい=芸者を揚げるための料金)などを扱い、同時に芸妓の教育も行なった所。北陽の料亭、置屋約80軒の総元締めであった。榎橋付近(現城北交番の並び)にあった料亭「東楼(あづまろう)」の三階が藤江検番だったらしい。中央玄関口の写真の人物は、前列左から藤原茂馬(東楼経営)、2番目は末光杢太郎。


「東楼」の広告(築地時代) 昭和10(1935)年頃
提供:藤原義雄氏

昭和7(1932)年、須賀川の流路変更にともない、東楼は多くの料亭とともに旧泉屋新田埋立地の築地に移転、建物も取り壊された。「雪屋敷」という風流な屋外宴会場と100畳敷の大広間を有した新しい東楼は、築地花街のシンボルとなったが、昭和20(1945)年7月の戦災で焼失。敗戦後、東楼の藤原茂馬は築地町から中央町へ移り「あづま食堂」を開業、平成まで長年市民に親しまれた。

13 船大工町商店街【恵美須町 大正末期(1926年)頃】大正末期、恵美須町に繋がる商店街になった頃の船大工町。スズラン灯※の灯りが船大工町をいっそう輝かせている。第二内港(朝日運河)が大正14(1925)年に造られ、近海航路や島嶼部の人たちが、この港から朝日町本通りを経て船大工町を通るようになったため商店街として栄えるようになっ た。明治末の凱旋門の写真とほぼ同じ方向から撮影されたと思われるが、その頃にはなかった映画館の「キリン館」(大正12年3月開館)が、はるか正面に見える。

※スズラン灯 街灯などに用いるスズランの花をかたどった装飾灯。

14 和霊さまのおまつり【和霊町 昭和初期】和霊神社の夏祭りは「四国三大まつり」の一つといわれ、往時から多くの参拝客で賑わった。門前には、みやげ物や飲食の屋台が軒を並べている。鳥居の右側にある小屋掛けは、サーカスか見せ物だろうか。私の体験でも、昭和40(1965)年頃までは「カッパ」や「狼少女」などおどろおどろしい見世物小屋を観た記憶がある。昭和8(1933) 年7月には、和霊祭神映画と銘打った『南海の激浪』※が映画化されたと記録されている。

※南海の激浪 昭和8(1933)年/新興キネマ製作 松本泰輔主演。全国封切に先駆け、同年の和霊大祭期間中「融通座」と「共楽座」で同時公開。

15 朝日運河【昭和2(1927)年】

住吉山方面から見た朝日運河である。写真には「市内灘幡(灘浦)ヨリ第二内港全景」とある。大正14(1925)年、 築地から朝日町まで約240mの間に築造された朝日運河は、木材など大型貨物船が出入りできるようになり、台風などの際の避難港としても重要な役目を果たした。和霊神社御幸橋前にある大鳥居は庵治(あじ)石製で、昭和13(1938)年この港から陸揚げされ運ばれている。同62(1988)年に埋め立てられ、市街化後は宇和島市総合福祉センターや歴史資料館が建っている。

 

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