移り変わる町並み 船大工町〜須賀通界隈3

16 旧須賀川上流【昭和5(1930)年頃】

須賀川の源流は若山に湧出して清流になり、大浦湾・玉ケ月(たまがつき=住吉町の三原産業宇和島油槽所付近)に注ぎ込む。この川の付け替え計画は明治39(1906)年に起こり、大正13(1924)年、この写真まん中の二階家から左へ和霊神社下を通り、玉ケ月に流れる設計が立案された。昭和5(1930)年4月15日起工式が挙行され、5月1日から着工した。この頃は神田川(じんでんがわ)同様、澄みきった泉水が湧き上がり、洗濯や水浴ができたそうだ。右側の煙突の煙は丸今綿布であろう。

17 宇和島市街【大正11(1922)年頃】航空機から撮影した宇和島市街。中央の黒い線は旧須賀川で、この後昭和に入ってから川の付け替えで、北部は大きく変化した。右手に真っすぐ伸びている白線の道は、大正9(1920)年泉屋新田を開拓、造成した朝日町である。大正10(1921)年8月の市制施行以前から3年以上にわたり続いた事業で、徐々に朝日町、弁天町、寿町一帯の市街地になっていく。右下の住吉山の白い建築物は宇和島測候所で、上方に内港に面した城山が見える。

18 須賀川付け替え工事の起工式【昭和5(1930)年】

市の北側を流れる須賀川は、東部の山を源として市街地を流れて海に注いでいたが、河口部の海浜に中流部の土砂を堆積した。このため、船舶を安全に碇船できるように、和霊神社上流から河口を大浦湾に曲げる川の付け替え工事を行なった。昭和5(1930)年4月15日、住吉町六艘堀(ろくそうぼり)付近の河床となる潰れ地(つぶれち)で起工式を挙行後、後方に白く見える三角形のテントでは前祝いの大宴会が開かれた模様。前列左から3人目が中川鹿太郎(2代目)、6人目が当時の山村豊次郎宇和島町長。

19 須賀川の付け替え工事【昭和7(1932)年頃】


第1期工事 六艘堀(ろくそうぼり=現宇和島道路朝日インター周辺)
写真提供:細井元義氏

昭和5(1930)年5月1日から、須賀川の下流545mに限って第1期工事が始っている。その後も用地買収などに時間がかかったが、同6(1931)年11月の和霊神社神苑敷地交換を最後として全線にわたり着工。2年5ヶ月後の昭和7(1932)年10月15日に、市の一大プロジェクトは完成。昔は測候所のあった住吉山と住吉小学校側(大浦から吉田町へ通じる見返り坂)は連続した丘陵であったが、ここを切り崩して新須賀川の水を流して海に注ぐことになった。


和霊神社前付近の工事

工事には大勢の労力を要したが、その大半は朝鮮人が従事して掘削土を運んでいたという。掘削の際には千石船(米千石程度を積める船)の残骸が出てきたというのは、須賀通の山下吉三さん(89歳 農業)が父親から聞かされた話。昭和5(1930)年4月着工、2年半の長い歳月を要して完成した。同7(1932)年10月、堤防の整然たる偉容を見ようとする市民の歓呼の声にうずまれ、和霊神社神苑(現和霊公園付近)で盛大な祝賀会が行なわれた。

20 築地花街と朝日運河【昭和8(1933)年頃】


樺崎砲台跡から築地花街

須賀川下流の付け替えによって、北新地(北陽花街)の置屋が営業できなくなり、その大半が旧泉屋新田に場所を移したのが築地花街の起こりであった。樺崎の沖合から築地花街を眺望している。左端の石垣と松林は、幕末期に築造された樺崎砲台跡で、近年砲台跡が一部復元された。昭和63(1988)年に朝日運河が埋め立て竣工し、平成4(1992)年、この向かいに旧宇和島警察署を復元した市立宇和島歴史資料館が開館した。


宇和島運輸と築地花街

船上から見た樺崎の宇和島運輸乗船場から朝日運河の広大な風景は、パノラマ写真のようだ。右側の朝日運河沿いには、移転してまもない築地花街が連なっている。写真中央は城山、その奥の鬼カ城(おにがじょう)の山並みは霧でかすんでいる。左側の住吉山の下にある宇和島運輸の桟橋には、小蒸気船が碇泊している。大阪や九州行きの宇和島運輸や大阪商船の汽船が、ここから出入港していた。

21 見返橋【住吉町 昭和8(1932)年頃】昭和7(1931)年3月、須賀川が付け替えられ、河口に鉄筋コンクリート造り、長さ約45.8m、幅5mの「見返橋」が架けられた。大浦から吉田町へ向かう見返り坂を掘って水路をつくり、和霊神社の上流から須賀川の水を大浦湾河口に注ぐようにした。橋名の由来になった坂の名は、江戸時代、住吉山から大浦の刑場・黒の瀬に向かう罪人が処刑に臨む際この坂から、今生の名残りとばかり宇和島城下を見返った(見返り坂)、という故事からきている。

22 新須賀川の大観【昭和10(1935)年頃】杉山昭文堂発行「宇和島名所」絵はがきの1枚で、「百万円を投じた新須賀川の大観」とあるように、通水式は昭和8(1933)年1月10日に挙行された。手前から、新設された見返橋、芝橋、須賀橋の順に整然と並ぶ。下は中央部分(三角形の道路)の拡大写真で、左の道のみ須賀通の御船手組(おふなてぐみ=士族)、須賀橋周辺から右手は御船頭町(おせんどうまち=町人)、この辺だけが旧宇和島町だった。大正10(1921)年まで、回りはすべて旧北宇和郡八幡村(やわたむら)に属した。

 

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