移り変わる町並み 船大工町〜須賀通界隈7[最終回]

44 宇和島のジャンジャン横丁【寿町 昭和47(1972)年】鶴島町(写真正面奥)から寿町まで延々と続く細長い飲み屋通り( 左側)、通称ジャンジャン横丁※である。昭和40年代までは、宇和島のナイトスポットとして、週刊誌などでよく紹介されていた。四国循環鉄道の建設用地(線路予定地)だったが、計画が中止になったため、このように線路幅だけの奥行きの浅い飲食店街ができあがった。この頃は、カウンター席だけの一杯飲み屋が多かった。写真右方に歩を進めると、市役所前交差点に行きつく。

※ジャンジャン横丁 本家本元は大阪市浪速区にある「ジャンジャン横丁」。興行娯楽街「新世界」に通じる「南陽道商店街」が正式名称。横幅2.5mほどの狭いアーケードの両側に串カツ屋など飲食店がギッシリ。昭和初め、三味線の音を響かせていたことに由来している。昭和50年代前半、芝居や映画を観て食事をしても1日1000円でおつりがきた。

45 安楽山浄念寺【藤江 昭和48(1973)年】
室町後期の天文年間に創建された浄念寺。「芝崎」の地と呼ばれた昔、寺のまわりは海でここに観音様が流れ着いて祀られた「芝崎観音堂」は、戦災焼失を免れた山門横にある。かつて境内に、画家・村上天心※の土饅頭のような墓があったことを知る人も少なくなった。尺八で著名な福田蘭童※にも関係のある同寺のご子息中村仁樹(まさき)さんは、若手急成長の尺八演奏家で、なんとなく縁(えにし)を感じる。

※村上天心(むらかみ てんしん) 明治10(1877)年〜昭和28(1953)年 天心の生家は旧須賀通の裏長屋(現御幸町・古賀耳鼻咽喉科付近)で、母と二人で豆腐屋を営んでいた。宇和島の伝統的な反体制芸術家の系譜につながる人物で、この町では受け入れられず、晩年を過した大分県杵築市が終(つい)の住処となった。

※福田蘭童(ふくだ らんどう) 明治38(1905)年〜昭和51(1976)年 本名:石渡幸彦 洋画家青木繁の長男。茨城県出身。尺八演奏家。作曲家。料理や釣りにも秀でて宇和海でも釣り糸を垂れた。こよなく宇和島を愛して地元の人たちとの交流もあり、須賀橋の麓(御幸町側)に別荘があった。

46 伝説のキャバレー「銀馬車」【鶴島町 昭和52(1977)年】


ステージ風景 提供:大村正二氏


BOOBYにリニューアル後 平成5(1993)年

鶴島町の伝説のキャバレー「銀馬車」の店内のショータイム。故大村正二(宇和島シネマクラブ)の映像作品「宇和島の夜」を静止画(ビデオ・キャプチャー)で取込んだ写真。当時を知る常連客によると、ここは、大きな円形ステージがせり上がり、ステージの三方を客席が囲むような配置になっていたらしい。今はキャバレーとしての役目は終えたが、特徴ある目立った建物は健在。コンサートなどで使われる「BOOBY」という貸しイベントホールに。

47 槙本本店のあった恵美須町付近【恵美須町 昭和55(1978)年3月】 恵美須町銀天街に新アーケードが竣工した落成式当日の写真で、銀天街側から見た恵美須町2丁目商店街。かつて辺り一帯に「どでぇーん」と店を構えていたのは、船大工町に隣接した恵美須町のシンボル槙本(塩屋)本店だった。店の屋号から昔は塩(汐)屋町ともよばれた。竪新町(現新町)の堀部、本町(現中央町)の石崎と並び、江戸時代から醤油醸造の御三家と称せられた。戦後はこの一角に山下百貨店が建ち、後「睦美歯科」やキャバレー「アカタマ」などの入った雑居ビルになった。

48 宇和島港駅【築地町 昭和54(1979)年】宇和島港駅(宇和島運輸待合所)へは、国鉄(現JR)宇和島駅前から海の方へ続く道を直進するとたどり着く。駅と港を結ぶ臨港道路が構想されていたための道路だったが、実現しなかった。当時、宇和島運輸の宇和島ー別府航路は1日1往復だった。「宇和島港駅」のバス停や左側にある赤いポストにも郷愁を感じる。現在は浮き桟橋もなくなり、当時の面影は残っていない。跡地には新しい魚市場ができている。

 写真提供:鳥羽正敏氏

待合所の中は港湾埋め立てにともなう移転間近なので、閑散としたうら寂しい雰囲気が漂っている。正面には時刻表が見え、左右の壁面には加和登旅館や喜久屋旅館、別府のホテルなどの広告が張られているが、そのほとんどが今はない。宇和島と別府を結ぶフェリーは、平成12(2000)年10月に廃止となり、明治の就航以来115年続いた宇和島発着の九州航路は姿を消した。宇和島運輸は八幡浜市に本社移転後の現在、1日八幡浜~別府間6往復、八幡浜~臼杵間を7往復、合計13往復を運航している。

49 前原巧山直系の「前原ブリキ店」【鶴島町 昭和56(1981)年頃】
科学技術者・前原巧山※の孫、前原喜太郎さん経営のブリキ職人の店。昭和53(1978)年頃には亡くなっており、アヤノ夫人が一人で店を切り盛りしていた。「前原冷凍機」と書かれた右側の看板は、一般的な冷蔵庫とは違って、氷を入れて食品を冷やすシンプルな手づくり冷蔵庫。 ご主人は祖父・巧山譲りの器用な人だったという。この辺りは藩政時代旧須賀川に面しており、御船手(須賀通)へ通った巧山の孫が船大工町に居住していたのも納得できる話。

※前原巧山 まえはら こうざん 文化9(1812)年〜明治25(1892)年 八幡浜市出身。薩摩藩に次いで蒸気船の製造・試運転に成功した。故前原アヤノさんには、平成4(1991)年の宇和島市歴史資料館オープンの際、写本「前原一代記噺し」等巧山関連資料提供を受けたり、大変お世話になった。

50 昭和レトロにタイムスリップ〜鶴島町の村上金工堂【鶴島町 平成3(1991)年】貴金属・宝石の加工販売の「村上金工堂」は、美しい瓦屋根に、立体的な浮き文字看板とタイル張りのウインドーが目立ち、この界隈では異彩を放っていた。丁寧な仕事で有名だった村上昭三さんが近年亡くなり、職人芸のひとつが消えた。以前は穂積橋そばにあったが、戦後、鶴島町※に面した立地に新築移転してから半世紀以上経つ建物自体はほとんど現役。写真左下の自宅用の茶色いドアも、バターンと開閉する茶色のドアもユニークな造りだ。

※鶴島町 当時の宇和島町には土地が少なく、開発可能な広い土地は丸穂村、八幡村に占められていた。大正3(1914)年8月、宇和島経済界の雄・堀部彦次郎が有志らと宇和島土地会社を創立し、市街地造成を目的に、恵美須町、船大工町の背後北方の田圃1万3000坪を埋め立て、翌4(1915)年4月に誕生したのが鶴島町だった。それから、宇和島鉄道本社や宇和水電の新築移転、劇場や映画館新設等で急速に発展していった。この町の区域が広いことは朝日町と同様である。

 

 

 

 

 

 

 

 

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